■ 自分史 第41回

昭和38年11月23日ケネディ大統領の暗殺を出勤前の我が家のテレビで知りショックを受けた。この報道は今でも鮮明に覚えている。

この頃、薬師町の借家より通勤していたが我が家に電話は無く、急患があると大家さん宅の電話で呼び出してもらっていた。深夜に出勤することも屡々でスクターのエンジンで近所に迷惑をかけていたが雨の日もずぶ濡れのため車を買うことにした。スバル360という軽自動車の中古車である。当時の軽自動車は私が運転未熟で溝に脱輪した時、大人3人で持ち上げたほどの経量であり、空冷で排気量が360CCのため急な坂道で大人4人乗ると黒煙をはきながら物凄い騒音がする。この車で宮崎県小林市高原町立病院に亀割峠を通り都城を経由し2時間かけ土曜日に出勤し日曜日に帰宅していた。

兄の車に兄の家族が、私の軽自動車に私の家族4人が乗り霧島に行ったことがある。
帰り道、私の後ろに兄が続き走行中、亀割峠の下り坂で工事中のため私は停止した。続く兄も勿論停止したが、後続を走っていた砂利運搬のトラックが兄の車に追突、玉突き状態で兄の車が私の軽自動車に追突した。私が先頭を走っていたのが幸いし私は一瞬気を失ったが、私が後ろを走り私の車に追突されていたら軽自動車のため家族全員命はなかっただろう。

現代のように救急車がくることも、パトカーが駈けつけることもなく、約1時間して巡査が自転車で坂を登ってきた。外傷はなく瘤が出来ているのをみて、巡査はしきりに示談をすすめ国分警察署に被害届を出すよう指示し帰って行った。追突したトラックの運転手は会社に属せず個人で仕事をしていて自賠償保険にも加入していない。謝るだけで保障もできず1銭の賠償金も貰らえず当てられ損となった。後日、整形外科で"むち打ち症"と診断され約1カ月鹿児島大学附属病院霧島分院に入院、同級生の米盛学先生のお世話になった。

昭和40年より紫原に転居、今ではベッドタウンだが当時は家屋が立ち始めた頃である。庭付きの日当たりがよく快適な借家だったが風呂はまだオガライトと名付けられた薪の代用燃料で沸かしていた。

長女も幼稚園に通園するようになっていたが帰宅すると妻が実家に帰り姿が見えない。前触れもなく突如のことで、二人の子供を放置することもできず病院を欠勤しながら二人の子供の面倒をみていた。カレーライスに似たものを作り子供達に与えたが美味しいと云いながら殆ど手をつけてもらえなかつた。美味しいと子供なりに気をつかってくれたのだろう。

新入医局員の3名が遊びに来ましたと訪ねてくれたが、教授の意向で様子を見にきたのが本音らしい。仕事では厳しいが教授の配慮によるものであろう。1週間後叔母に連れられ帰宅したが今後生活が続けられるのか不安が残った。翌日、出勤し叱責を覚悟で教授室に入るなり、教授に「わかっている、わかっている」と言われながら手で制せられたが教室に多大の迷惑をかけ反省しきりだった。

■ 自分史 第42回

前述したように当時の手術はすべて局所麻酔である。当然、手術中の医師間の会話は患者の耳にはいるし、眼前を覆われている患者は耳に全神経を集中しているので術者と助手の術中の会話にも注意が必要となる。医師同士の何気ない会話が術後患者により指摘されることもある。

扁桃摘出は笹木式で座位で助手が口蓋弓を上方に持ち上げ切開を加えるが、絞扼反射の強い患者は大変だ。特に教授の手術になると絞扼反射が少しでも残ると大変である。コカインを咽頭巻綿子で根気よく塗布し絞扼反射を除くが後は祈るような気持ちで手術に臨む。

副鼻腔炎の手術も頻繁におこなわれたが、すべてCaldwell-Luc法にしたがい、露出した顔面壁を穿開し洞内の粘膜を除去後、下鼻道に大きな対孔(排泄路)を作成する。喉頭癌の手術も30年代前半はキシロカインを大量に使い局所麻酔で行なわれていた。

当時、麻酔科は無く外科の教室員に依頼し全身麻酔をかけていたが経験豊富な麻酔医ではなく局所麻酔から全身麻酔の過渡期だったと思う。輸血も当然必要となるが現代のような血液パックはなく手術室の隣の部屋に献血者を呼び血液型のみ検査し200CCの注射器で採血そのまま術中の患者に輸血していた。献血者は失業者が多く自分の血液を売ることで生計をたてている者もいたようだが、献血者の健康維持のため同一人物は月に2回迄と限定していた。当時1回200cc採取して500円だったと記憶している。

術後は摘出した喉頭をブランコのように吊り下げホルマリン漬けにして保管し教授の要請に何時でも提示できるようにする。同時にカルテに頚部郭清した部分も写実するが赤鉛筆で描いていくと夕焼けのようになり教授に絵心が無いなと言われた事が心に残っている。

中耳炎より耳性脳膜炎をおこすこともあり、耳の手術も頻繁におこなわれたが中耳腔、乳様洞を一塊にして術後の聴力は無視した破壊手術であったが昭和30年代後半より術後の聴力を温存する鼓室成形手術がおこなわれるようになった。抗生物質と手術用顕微鏡の出現によるもので、今まではすべた肉眼でおこなっていた。現在ではどこの診療所でも存在する顕微鏡が貴重な器具で常に教授室に保管し手術のたびに教授室より手術室に運び終了後にふたたび教授室に保管していた。大きな顕微鏡をエレベータに乗せ大名行列の如く運んでいたが今の時代笑い話だろう。

■ 自分史 第43回

大忙しの連日である。

昨近の医療ドラマでは5時になるとさっさと帰宅する映像を良く見るが、当時は帰宅時間は無視され夜の7〜8時まで勤務することは当然と思われた時代である。数少ない教室員だけで外来を終えながら教授回診には万全の準備をしなければならない。カルテの1語1句に気をつかう。入院患者の面前で叱責をうけることもあり、患者に"私のためにすみません"と謝られることもあった。

昼食は医局で食べるのが原則であったが、教室員が少ないため教授と顔を突き合わせて食べることになり楽しい雰囲気ではない。私は極力避け院内の食堂で食べていた。教授は大の巨人フアンで巨人が勝った翌日は機嫌が良いとの評判でポリクリにくる学生は巨人戦の試合結果に一喜一憂していた。

診療と同時に渉読会もあり、地方部会等の学術発表会の準備もある。大学院学生本来の研究は診療後の夜間に行うことになるが遅々として進まない。研究というものは連日研究に没頭し、はじめて成果が得られるもので断続的におこなっても成果が得られるものではない。連日の診療で研究に連日没頭する余力はなかった。

当時は頻繁に当直を行っていたが、医局に冷暖房はなく扇風機で涼をとり、昭和30年代後半に初めて窓の横に取り付けるウインドウクーラーが取り付けられ、昭和39年東京オリンピックが開催されるということで初めてテレビが医局に取り付けられた。

昭和41年8月文部省短期在外研究員として教授が西ドイツを中心に欧米の大学を約3ケ月研修のため外遊された。この間、医局員は私を含めて3人となり連休になると毎日当直である。幼児である子供達も当直という言葉を覚えていた。

最古参である私が責任者であると同時に3ケ月を無事に過ごすことを願っていたが、梅干しを誤嚥した食道異物の患者が搬送されてきた。直接喉頭鏡下に摘出を試みたが、摘出できず頚部より食道外切開を加え摘出することとした。教授の助手として立ち合ったことはあるが、術者としての経験は無く、術前、手術書を読み直し手術に臨み無事摘出し完治した。私には日頃助手とし手術に臨んでいたことが役にたった貴重な経験である。

■ 自分史 第44回

大学院学生として与えられたテーマは"航空中耳炎の病因および中耳病変に関する臨床的研究"であった。

実験動物として猫を用いたが、当然、猫の命は無い。私より先に先輩のK先生にこのテーマが与えられたが、猫を殺すと"たたり"が来るとの理由で拒否され私に与えられた因縁つきのテーマであったがこの事は後で知る事になる。

実験は猫を集めるところから始まった。谷山のH先生の好意で児童に頼み一匹100円で野良猫を買いあげていたが、最近、猫が大人しくなってきたなと思っていた時、南日本新聞の投書欄に最近飼い猫が居なくなるが、大学病院で実験用に買い上げているらしいとの記事が掲載された。以後、大阪の業者から調達していたが一匹500円だったと記憶している。昭和30年代のことである。

今、思い返すと現代のように充実した設備はなく、グループに分かれ互いに連携をとりながら総合的に行っている研究とは程遠く、私の研究施設は低圧タンク唯一つ、そして猫という簡素で素朴なものであった。猫を4つのグループに分け@全く処置を加えない群A硝酸銀溶液で耳管咽頭開口部を腐食した群Bアルコールを胃内に注入した群Cエチルエーテルで麻酔した群に分け、夫々処置を加え低圧タンクにいれ観察をするが、A〜Cの群の猫が大人しく硝酸銀で焼かれたり、アルコールを飲んだりする筈がない。勿論、猫を固定箱で固定するが、生来、野良猫で暴走族を一人で取り押さえるようなものである。助手のK嬢も最初は大人しく手伝ってくれたが、手を噛まれ腕を引っ掻かれ、遂にはK嬢も野良猫と化してしまった。

実験後は直ちに頚動脈を切断し失血死させ、中耳腔を側頭骨より摘出するという凄惨な実験で、当時は教室員も少なく実験は夜行なっていた。陰気な実験室で猫の頚動脈を切断し、実験後、焼却炉に猫を処分しに行く時は背筋に冷たいものを感じた。丁度、その頃私の腋窩部リンパ節が腫脹し、恐れていた猫の'たたり'ではと心配し、外科でリンパ節を摘出、組織検査を受けたことがある。

実験結果は遅々として進まなかったが苦心の甲斐あり、やっと一枚のプレパラートが出来上がった。当時、なるべく教授室に近寄らないように努力していたが、嬉しさのあまり怖さも忘れ教授室に飛び込んだ。私の医局生活の中で数少ないお褒めの言葉を頂き感激したことを憶えている。実験も終わり教授の指導のもとに論文が完成したが、時、既に猫を集めてから6年という年月が経過していた。仕事の合間に一人でやり遂げた実験だけに今でも誇りに思っている。そして無我夢中で教授室に飛び込んだあの感動は今でも忘れていない。

■ 自分史 第45回

昭和42年4月第2回政府派遣沖縄学童検診に参加した。当時の沖縄はアメリカ占領下にありパスポートが必要である。

沖縄では医師不足と公立病院が少なく学童検診は殆ど行われていなかったが昭和41年より4年間、日本の総理府、文部省、外務省と沖縄駐留米軍民生局が協議し、九州の国立大学の鹿児島、熊本、長崎、九州大学より小児科、眼科、耳鼻科、皮膚科、歯科の医師が派遣された。派遣に先立ち熊本大学で結団式があり何故か私が派遣団の団長に選ばれたが私一人が講師であったのが理由らしい。初めての経験だったが総理府より派遣された総理府特連局援助業務課長の指示にすべて従い行動した。

福岡空港より出発したがマスコミも押し寄せ手渡されたメツセージを読み、沖縄空港に到着すると空港でマスコミの前でも手渡されたメツセージを読むことになる。当時、佐藤内閣で沖縄の復帰前であり個人的な発言はしないよう指示されていた。

約3カ月間毎日学童検診に従事したが、我々のグループは那覇市内の小、中学校を担当したため、宿舎も国際通りに近い和風の旅館があてがわれた。那覇地区の小学校25校約3万8000人の児童を対象に1日1校を検診したが、耳鼻科では耳垢の児童が大部分で検査と同時に耳垢の除去を行った。検診後、学校側と反省会を行うが昼過ぎには終了する。午後は何することもなく国際通りの土産物屋を見て回り、当時、内地で見られなかったボーリングに興じる者もいた。

琉球政府の招待により割烹で沖縄料理を御馳走になったが、アメリカ政府の歓迎はハーバービュウーホテルでの朝食会でおこなわれ流石アメリカと感心したものだ。衛生局の局長が親日家で奥さんは熊本県出身、息子の名前は武蔵と話しておられたのが印象に残っている。

我々医師団は日本政府の意向で検診をおこなっていたので、マスコミの関心も高く常に我々の動向が新聞紙面に紹介される。団長である私のプロフィールも「時の人」として紹介され沖縄政府より琉球舞踊に招待された時、感想を紙上に掲載されたことがある。当時の新聞記事は今でも保管しているがセピア色に変色してしまった。

3か月の間、耳鼻科の開業医渡嘉敷先生にお世話になり米軍空軍基地での航空ショー等歓待をうけた。無事検診も終わろうとしていた頃、奥さんが見えていますよと係員に云われ、何かの間違いでしょうと答えたが、家内が友達と二人で観光を兼ねて来島していたのに驚いた。私は日本政府の依頼で公務としての検診であり家内と観光をしている立場ではない。係員の温情で帰りは飛行機で一緒に帰国したが突飛な行動に驚かされた。

■ 自分史 第46回

教授が自動車の免許をとられ運転に興味があった事もあり、日曜、祭日を利用し間接喉頭鏡だけで喉頭癌の早期発見のために北薩、南薩と検診に巡回し癌患者数人を早期発見したことがある。当時は現代のように喉頭ファイバースコープはなく、今、思うと当時は間接喉頭鏡だけで良く検査出来たものと思う。

講師になり学生に講義をすることになるが、私の担当は鼻科学の総論である。各論は教授が講義されるが、学生にとって耳鼻科が国家試験の出題教科にならない限り大部分の学生は興味を抱かない。卒業試験を目標に是非学んで欲しい箇所だけを赤チョークで記しながら講義をしたつもりである。

当然、ポリクリにも学生は来るが、学生には耳鼻科は教授の厳しさが噂となっていたので、教授に指摘される点を重点的に指導し学生には重宝がられていた感じだった。大学院を終了するとすぐに講義をしていたが、教室員が少なく人材不足だったのだろう。

医局では昼食時になると、教授の秘書的な補助員が教授に卵入りの饂飩をつくるのが慣わしとなっていたが、ある日冷蔵庫に入れてあった卵が一個無いと大騒動になった。宿直医が教授のものと知らずに食べたらしいが、翌日より卵にマジックで教授の名が記されていた。秘書の苦肉の策であり今では笑い話にすぎないが、卵一個が貴重な時代である。

酒を飲まれない教授のため教室の慰労会は、常に祇園之洲にあった水炊き「よしだ」か、中華料理「福楽園」で行われていた。少ない教室員のため盛り上りに欠けたが、M先生の当時大流行していたピンキーとキラーズの"恋の季節"の物真似が大喝采だった。

私の在局中は教授の厳格なことで教室員、学生共に評判だったが、その後、病院長になられた頃より少し和らいで来られたと聞いていた。

在局中は教室員も入局順に暗黙の席順が決められていたが、私が退局し数年後、霧島で開かれた教室の忘年会に出席したことがある。既に開業していたので遅れて参加し下座と思われる襖を開けたところ、教授が座っておられた。上座と間違ったかと驚いたが、席順は籤で決められたと教授が少し寂しげに云われた。籤にしても教授の座席は不動のものと思っていたが、籤を進言した教室の空気も変わってきたなと思う事だった。

■ 自分史 第47回

昭和42年、当時、紫原に住んでいたが父と兄が訪ねてきた。父が年老いてきたので家業を継いで欲しいとの依頼である。

8年間、務めた大学を辞し若松耳鼻咽喉科を江川耳鼻咽喉科に改め稼業を継ぐことにした。昭和25年に建築した木造モルタル造りの2階建ての医院だったが、既に築17年が経っていた。

昭和25年当時、我が家周辺は未だに戦災の跡が残り2階建ての建物は無く2階から港に出入りする船が見えたものだ。同時に城山展望台も望むことができたが、現在ではビルに囲まれ太陽も見えない状態である。

隣地を買い取り増築したため、外来と病室は別棟となり踏み板で繋ぎ、看護婦もすべて見習看護婦で現代のように正規の教育を受けた看護婦はいない。保険請求は母がソロバン片手に事務を行い、給食も母が作り看護婦が配膳していた。勿論、院内処方で投薬していたが、抗生物質等の高価薬は毎回住宅に取りに行き投与していたと思う。全てが戦前の診療形式をそのまま継続されておりそのスタイルを変える所から始まった。

病室を和室からベッドに改装し看護婦も当直のため全員住み込みとした。当直日誌を書かせ消灯時間には入院患者に就寝のコールを、そして毎朝朝礼を行う事にした。看護婦の委託学生も採用したが、遊び盛りの未成年者であり預かっている以上全てに責任がある。当時、病室を見回っていると、看護婦がベッドに腰掛け患者と一緒にミカンを食べているのには驚いた。

レントゲンを増設したが放射線を遮断することなく普通の部屋で許可されたが昭和40年代の事である。

当時は製薬会社も大儲けの時代である。開業した時スチール製の金庫を開業祝に貰ったが、中には薬が充満しており、数年後には月に40〜50万円の薬品を購入すると海外旅行に連れていくという時代で薬品会社と医師の癒着が甚だしい時代である。「薬の原価が10%で利益が90%」という意味で「薬九層倍」と揶揄されていた。既に医薬分業が制定されていたが昭和50年代までは骨抜きの状態であり当院で医薬分業を実施したしたのは平成5年である。

私の海外旅行の始まりは薬品会社の招待でタイに海外旅行に出かけたが、何となく落ち着かず空港に降りた途端国中がハーブの匂いで充満しているような気分がした。観光の途中で椰子の実を鎌で切りストローで飲むサービスを受けたが、果汁が生温く美味しく無かった思い出がある。常に冷たい飲み物を日常的に飲んでいる日本人が贅沢なのだろう。

■ 自分史 第48回

開業して2年、昭和44年7月、外来に設置されていたテレビに人類初めての月面着陸の鮮明な映像が放映された。診療はさておき患者と画面を食い入るように見入った記憶がある。月面を宇宙服を着た人間が兎のように跳ねながら歩きアメリカ合衆国の国旗を立てたシーンである。

その後50年、宇宙開発は凄まじい勢いで開発され宇宙ステーションに人類が暮らすまでになった今日だが、月に関する探究は全く聞かれなくなった。一説によると月面着陸は捏造だったとの論調もあり、又、一説によると莫大な費用がかかる割合には軍事的価値がないので頓挫しているとの説もあるが何となく不自然な感じがしている。

昭和30年〜40年代は小学生の副鼻腔炎(蓄膿症)、中耳炎が数多く見られ、夏休みになると小学生、中学生が殺到し耳鼻科医の稼ぎ時とされたが、反面、今国民病といわれるアレルギー性鼻炎は殆ど見られなかった。というよりはアレルギー性という診断を明白につけられなかった時代である。食生活や衛生的な改善に伴い小中学生の罹患率は激減した昨今では、夏休みになると耳鼻科医の閑散期である。

今では見られないが、当時は幼児が10円硬貨を口に含む習慣が残っており、無麻酔で懸垂頭位とし硬性の食道鏡を挿入して摘出していた。鼻出血患者も屡々救急車で搬送され、簡単な症例からベロックタンポンを挿入し輸血する症例も頻繁に見られた。手術例は扁桃肥大の扁桃切除、アデノイド切除も無麻酔でコカインを咽頭巻綿子で塗布麻酔するのみで切徐し、切徐後かなり出血するが咽頭卷綿子を大きく巻き、術創を圧迫して止血していたが今の若い耳鼻科医には想像出来ないと思う。

手術用顕微鏡の出現により耳の手術も行っていたが、外来で使用することはなく鼓膜切開は肉眼で行なっていたが、今、振り返るとよく肉眼で出来たものと感心している。

開業して間もない日曜日の当番医の時だった。突然、乳児を抱えた主婦が受付もせず「先生助けてください」大声を張り上げながら診療室に飛び込んできた。抱えている乳児が金柑を誤嚥し顔面蒼白、項垂れていた。診察台に仰臥位にしたところ、幸いに金柑が排出され、やれやれと手を洗い振り向いた時は親子の姿はなく、受付に尋ねると帰られたと言う。診察料は勿論のこと、何処の誰かもわからず姿を消した。診察室に勝手に飛び込んできて簡単に排出したので、治療を受けたとは思わなかったのか、感謝の一言も無く姿を消した。近所の主婦か遠方から来られたのか、未だに不思議に思っているが、開業した最初の出来事として今でも深く印象に残っている。

■ 自分史 第49回

勤務医時代は大学病院という城に囲まれ教室という鎧を纏い保護される部分が多く認められたが、一開業医になると自院で行われたこと、行なわれること全てに責任を伴い責任が追及される。勿論、開業医でなければ味わえない嬉しさ、楽しさと同時に嫌な事、不愉快な事もある。

或る夕方、男の子が母親に連れられ受診した。他県の耳鼻科で治療を受け、現在、自覚症状は無いが治っているか診て欲しいとの事である。耳鏡検査では異常は無く異常なしと診断し帰宅させた。

翌日の夜見知らぬ男から電話を受けた。男は関西弁で概略は男の子が夜耳痛を訴え某診療所で診察を受けた所、昼間の診療が悪いと言ったがどういう治療をしたかとの事だった。私は診察の結果、治癒の状態にあると診断し特に治療はしていないと説明したが、男はお前の治療が悪いと言われたと一点張りである。私が直接、診療所(当時、昼間は休診で夜間専門の診療所が存在した)に問い合わせた所、そういう事は言っていないとの事だった。私は説明に努めたが聞き入れられず、今後は私が責任をもって治療することを約束したが拒否された。

2日後の夜、再度男より電話があり話あったが、話合いにならず、しばらくして初診時の母親が子供と共に来院した。この時、判ったのは子供と男は全くの他人で男の店に母親が働いている様子だった。男の子を診察したが、異常を認めなかった。男は前回同様、私の責任を追及し私はそれを否定するやりとりが繰り返された。金銭を要求することは無かったが、幾らかを提示すれば解決する雰囲気は感じた。最終的に私が医師会の医事紛争委員会に判断を委ねることを提案し、不満を委員会で述べるよう説得した。

翌日、市医師会に概要を説明し書類を提出した、約2週間後医師会で医事紛争委員会が開かれ、担当理事により事情を聴取されたようである。担当理事の話では、席上、男の主張は診療所の医師が私の治療が悪いと指摘したという事には触れず、私の診察態度が悪いということに終始したようである。結果は委員会の説明に納得したものと思われ、その後、音沙汰はない。

日医ニュースに次のような記事が掲載されていた。名古屋市内の耳鼻科医が一老女の耳垢を除去し帰宅させた所、同夜耳鳴りが起こり苦しんだと因縁をつけられ、更に医師は患家によびだされ、なんと2400万円を要求されたという。

この例に比べると私の例は笑い話程度であるが、医師により診断や治療方針に差があるのは当然であろう。医師は自分の考えに基づき説明すれば良いのであり、以前に他医がおこなった診療について安易に批判することは紛争の元であり、自分の専門外の事であれば尚更の事である。

医療事故は細心の注意をはらう事により、ある程度避けられると思うが、言いがかり的な紛争は避けようがない。マスコミの弱者救済的な医師に対する医師不信的報道にも責任の一端があると思うが、自分に落度は無いと信じていても解決するまでの毎日は不愉快な日々である。

■ 自分史 第50回

当時は耳鼻科の開業医は数少なく、吉野、田上、紫原、種子島、屋久島、大島に開業医はいなく離島の患者も多かった。

昭和40年代から50年代にわたり日本の経済は高度成長期に入るが、それに伴い各会社の健康保険組合も潤ってくる。後年、問題になった各組合の保養施設ができたのもこの頃である。医療機関への医療費の支払いも潤沢であり、昭和48年には70歳以上の高齢者の診療費は全額無料という時代である。病院の待合室は老人の憩いの場となり「○○さんの顔が見えないが病気らしいよ」と揶揄されていた。

受診患者数も次第に増え昭和50年代は日に200人を下回ることは無く昭和56年改築するため近くの2階を借り約6ヵ月仮診療所で診療したが患者が階段まで溢れ1日300人を超えた日が数回あった。患者数が増えると請求件数も増え当時はレセプト請求は全て手書きでアルバイト二人を雇い作成していたが、枚数が多く積み重ね綴じるのに大変だった。当然、収入も増えるが当時は医師優遇税制の時代で総収入の72%が経費と認められ、税の申告は自分で計算して税務署に提出していた。開業して数年間は従業員の月給計算、薬品会社への支払い全て一人で行なっていたが、所得税支払1000万以上は高額所得者として医療系の雑誌に掲載される時代で医師の黄金時代である。

看護婦も見習いから准看護婦に替えていったが給与のせいもあり小さな医院に勤務する看護婦は少なく苦労した。院内に寄宿させ看護学校に通学させる委託学生も採用したが、院内に寄宿する以上、日常生活まで院長の責任である。夜、無断で外出する子もいる。委託学生として通学し卒業すると委託された医院に2年間は勤務するという制度であったが卒業すると都会の或は大きな病院に転勤する者もいたが引き留めることはしなかった。記憶に残るのは鹿屋出身の委託学生S嬢で頭脳明晰、看護学校を首席で卒業したが、小さなクリニックでは満足せず都会の病院に就職したようだ。今では大病院の総婦長になっているだろう。

午前中外来診療で月、水、金、の午後を手術日とし手術中は父が診療してくれていた。扁桃腺摘出手術、副鼻腔根治手術 アデノイド切除、中耳根治手術が殆どであった。術後最も気を使うのが術後出血である。特に扁桃腺摘出は退院間際に出血することがある。

若い女性が扁桃腺摘出後明日退院という前日が日曜日であった。明日退院ということで会社の同僚が見舞いに来たらしい。若い女性同士の事ゆえお喋りに興じたのだろう。当日の深夜より出血した。運悪く私は土曜日の夜、友人の娘の結婚式で宮崎に行き一泊の予定で不在だった。当直の看護婦の連絡を受け近所の外科医に応援をお願いし急遽帰宅したが早朝5時頃だった。完全に止血し得ず。医師会病院に転送することにした。家族が警察関係で不在であったことを責められた。私も見舞いに行き彼女とは良好な関係にあったが、数日後、警察の幹部である父親が酔っぱらって来院し、悪態をついて帰って行ったが、現職の幹部であるだけに今の世では大問題になるだろう。元をただせば私が不在であったことが原因である。