■ 自分史 第51回

開業して間もなくゴルフブームがやってきた。高度成長期になり日々の生活に少し余裕ができた事、戦後、娯楽らしいものに飢えていた事も誘因だろう。昭和30年代は医学部の教授数人がゴルフに興じている話を聞いたが、教室員がゴルフをすることは皆無である。

日本では明治34年神戸の六甲山に4ホールズのゴルフ場が造られたのが最初と云われている。鹿児島では昭和32年に霧島ゴルフ場が、昭和34年に南国カントリークラブが、昭和38年に出水ゴルフクラブが誕生したが、南国カントリークラブは9ホールだったようだ。昭和40年代になり竹の子のように各地にゴルフ場が増設され、現在は鹿児島県に32ヵ所、全国で27番目に多いそうだ。経済が豊かになるにつれ、ゴルフ会員権もうなぎ上りに上昇し数千万円で売買され投資のために買う者もいたが、バルブ崩壊とともに今では数十万円の会員権となってしまった。

戦後20年が過ぎ、娯楽らしいものに飢えていた医師がとびつき、医師が数人あつまると話題はゴルフという時代となったが、若くて30代、年配者は50〜60歳になり初めてクラブを握るわけで、現代のように小、中学生、幼少期からはじめた若者とは全く異なるゴルフである。勿論、優劣を争うが懇親と自己満足のゴルフだった気がする。

当時はゴルフショップも数少なく先輩の中古品を譲ってもらったが、シャフトはスチール製でヘッドはパーシモン、重さも現代のようにチタン製で軽量ではなく木刀を振り回す感じだった。昭和40年代の後半、鹿児島市営野球場の横に陸上競技場の補助グランドがあり、今は公営住宅が建っているが、グランドの外周から中央に向け打ちっぱなしの練習場があった。現代のように外周を網で囲うことはなく、打たれたボールはアルバイトの学生が一個ずつ拾い回収していた。

先輩に連れられ初めて南九州カントリークラブに連れていかれたが、途中、茶屋で水を飲むと2〜3打は影響すると、真夏でも水分を補給する事を禁じられたものだ。現代では帽子の横にマークをマグネットで止めているが、当時はスタート室の窓口に赤色の毛糸が1センチ位に切って置いてあった。今でいうマークだが、毛糸の切れ端のため風に飛ばされることがある。

ゴルフを始めた頃は日曜日になると、天気に関係なく雨が降っても、雪が降っても出かけていた。当時は27ホールプレイするのは当然であったが、次第にゴルフ人口が増え待ち時間が2時間位のこともあり最終ホールに近づくと日没のため、コースの両脇に車を配置しヘッドライトでフェアウエイを照らしながらプレイしたこともある。

■ 自分史 第52回

当時は好スコアを出すたびにハンデキャップは上がり最高のスコアは42、42でハンデキャップ13となった。思い出としては南国カントリークラブで2回ハーフだけ39、知覧カントリークラブでもハーフ39でプレイしたことがあるが加齢と共に飛距離は落ち、その後はこれ以上のスコアを出すことはできなかった。

思い出は平成10年11月15日空港36カントリークラブ18番ホールパー5をイーグルであがったことだ。3打をスプーンで打ちグリーンにオンした気がしたが、グリーン上にボールは無くオーバーしたと思い全員で探したが見つからず、最後にカップの中で見つかった。スコアは44,43(87)で2万円を支払い記念の植樹をしたが、老木となったか、自然消滅したか定かではない。

昭和40年代 キャデイはある程度ゴルフに関する知識が求められるがゴルフの経験を問わず学生や近所の農家の主婦がアルバイト的に従事していた。一人が一個のバックを背負い後ろから付いてきたが、時にはバッグと同じ位の背丈のおばさんが背負い、人手が足らないときは2個のバッグを背負っていたが気の毒で見ておれなかった。その後、次第に電動カートになり今では架設したレール上を運んでいる。キャデイとしては、随分楽になったと思う。バックを運び、ボールの行方を見て、コースのアドバイスをするのが仕事だが現代のように教育を受けていないキャデイに方向を尋ねると、向こうには砂場(バンカー)がありますと答えが反ってきた事がある。次第にキャデイも洗練され今ではトーナメントに出場するキャデイも増えてきた。或日プレイしているとキャデイが打つ度にクラブを手渡してくれる。生意気なキャデイと思い、後で聞くと選手権保持者のキャデイだったそうだ。

バブル時代になると毎週日曜日にどこかのゴルフ場で製薬会主催のコンペが行われた。豪華な賞品と送り迎えもある時代である。製薬会社の招待で静岡県川奈ゴルフ場、福岡県の芥屋ゴルフ倶楽部、台湾の新淡水ゴルフ場に招待されたこともあるが医師と製薬会社の癒着が問題となってきた。

当時は、まだ貧しい時代で新淡水ゴルフ場ではキャデイ同士が客のプレイにかけ合い、シンガポールのゴルフ場では谷超えのショウトコースの谷間に男の子が群がりOBを打つと子供がボールに群がり取り合いが始まる。ロストボールとして売り収入を得ると聞いていたが現在では見られ無い事と思う。

■ 自分史 第53回

元来、東宮御所として使われていたが、昭和49年 改造修築され迎賓館として使用されるようになった。それに先立ち一般公開されたが、突然、わが家に総理大臣田中角栄の名で招待状が届きびっくり仰天。当時、二階堂進官房長官の秘書官だったN君の配慮によるものだったが、彼は男子付属小時代背の高さが同じ位でいつも私の後ろに彼が立っていた。卒業後、志が異なり彼は早稲田大学に進学、政治の世界に没入していった。小学校を卒業して30年近く経っていたが、小学校時代6年間席替えも無く学んだ友情は忘れられない。

好意に甘え夫婦同伴で羽田空港に降りると、一介の町医者を黒塗りの運転手付きの車で迎えくれて吃驚、ニューオータニに宿泊、翌朝、彼の案内で迎賓館更に首相官邸を見学させていただいた。迎賓館では多くの来賓者がみられたが、首相官邸は彼個人の案内で閣僚の記念撮影をする階段も案内されたが思ったより質素な感じだった。

この事を切っ掛けに東京最大の赤坂のキャバレー、ニューラテンコーターや コパカバーナに彼に連れていかれた。ニューラテンコーターはプロレスラー力道山が刺された事で有名なキャバレーでありコパカパーナはスカルノ大統領夫人になったデヴィ夫人が働いていたといわれている。私が連れて行かれた時、コパカパーナではステージで歌手のシェパードが歌っていたし周囲には芸能界の有名人もちらちら。勿論、田舎者の私が行ける場所では無かったが支配人が鹿児島出身で親しみを感じていた。支配人の配慮か同席したホステスが鹿児島出身なのに驚いた。さすが東京で一流の社交場であり重厚さがみなぎっていたが、N君の後ろに付いていたので威圧感は感じなかったが、この時、初めて東京を知り同時に官房長官秘書官の凄さもあちこちで見せつけられた。

N君の薦めで妻に土産を買うことになり赤坂でエルメスのブラウスを求め意気揚々と妻に差し出した所「欲しいものは自分で買うので今後一切買ってくるな」と一喝、これを機に終生土産を買ったことは無い。

この頃、小学校時代の同級生H君が鹿児島で土木建設業を営み高速道路の建設ラッシュ時代、所謂高度成長期と言われ物資がいくらでも欲しい時代だった。錦江湾の砂利を吸い上げ一儲けしようとN君の後押しもありH君の発案で会社を設立、私も投資したが数年で倒産。この時代、宮崎県の日南海岸にフェニックスを植樹するとか、霧島に植林するとか、郡山の宅地造成にとか、将来の利殖に付け込まれ勧誘された。賛同者を見ると多くの医師が名を連ねておりお互いが連帯保証の安心感があった。私もその一人で投資し全て水の泡と消えたが、高度成長期で日本国中に金が余り金銭感覚に無頓着な時代である。

■ 自分史 第54回

昭和50年代 日曜日になると雨の日も風の日もゴルフに没頭する日々であったが、この頃、在局中は逃げ回っていた恩師久保教授に時々ゴルフに誘はれていた。私が開業医になった事も一因かと思う。

或土曜日の午後、錦江高原コースに同伴、一人で来ていた外科医と3人でプレイ中の出来事である。3ホールを残した場所で突然、教授の足に痙攣が起こった。立つのが精一杯で歩くことはできず、勿論プレイは中断したが、さて、教授をどうするかと同伴プレイヤーの外科医と思案、今ではスターター室に連絡し救急車で搬送するところだろうが、当時は想像出来ない事だった。背負うには重すぎるし、このままコースのど真ん中に放置することもできず、相談の結果ゴルフバッグを降ろし三人分のバッグをキャデイが担ぎカートに教授を乗せることにした。

当時のカートは現在のように人を乗せることは無く電動でもなく、単にバッグを運ぶ手押し車である。バランスをとるのが難しい。バッグは固定して動かないが人間となると前に重心がかかると反射的に後ろに重心をかけようとする。バランスを失うと万歳となり逆に前にのめりこむことになる、私自身教授をカートで運ぶとは夢にも思わぬこと、いつもの元気が無くカートの柄に両手でしっかり捉まっておられる教授に‘微笑ましさ’と同時に幼年時代に見た桃から生まれた桃太郎が犬、猿、雉を引き連れ鬼ヶ島の鬼を退治した挿絵を思い出した。勿論、宝物は教授であり桃太郎は見当たらないが、犬、猿、雉が我々とキャデイである。教授もカートに乗られたのは生涯忘れることのできない珍事であったと思う。後日、一度だけ憶えておられますかとお尋ねしたことがある。あまり思いだされたくないようで“そんな事があったかな”とおとぼけの返事だった。

我が家での出来事である。窪という姓の看護婦がいた。彼女が帰省中の出来事である。受付から“くぼさんから電話です”との事。気楽に窪君のことを頭に浮かべながら“もしも〜し”受話器の向こうから“江川君か?”忘れる事のない天の声である。‘ハハイッ’気がつくと受話器を片手に直立不動である。敬礼こそしなかったが戦前の教育を受けた私の悲しい習性である。

■ 自分史 第55回

昭和40年代より海外旅行が日本人全体のものとなり、気楽に海外旅行を楽しむ時代がやってきた。薬品会社の接待で初めてタイを旅行してから家族とハワイ、アメリカ西海岸 香港 友人とヨーロッパ、カナダと旅行し次第に単独で北欧、クルージングを楽しんでいた。80歳を過ぎ腰痛に悩まされながらも楽しんでいたが年を重ねるごとに意欲はあるが体力が衰えてきた。思い出として残るのはカナダ、北欧そしてエーゲ海、ドーバー海峡のクルージングである。

カナダではバンクーバー経由、ジャスパー、カナディアンロッキーを満喫しバンフに宿泊。昼食にアルバータ牛を食べたが日本で食べる牛肉とは異なり不味かった記憶がある。カナディアンロッキーの道中は美しい湖と氷河の山々、素晴らしい景観と北極圏を除けば北半球最大規模のコロンビア大氷原に満足。親友のN先生と共に世界的に有名なバンフスプリングスホテルに宿泊したが、併設するゴルフ場で急遽ゴルフをすることになり貸しクラブ、貸し靴でプレイした。同伴者にカナダ人の青年と老婆が加わったが、我々3人で1台、老婆は御主人が運転するカートに分乗、御主人は運転に専念しプレイすることなく老婆に付いてまわるだけだった。我々とは飛距離が異なり老婆の申し出により途中から我々とは別にプレイをすることにしたが、夫婦同伴で余生を楽しむゴルフで日本では見られない光景に微笑ましく、羨ましく思い国民性の違いを実感した。

ヨーロッパに旅するにはロシアの上空を飛ぶことが一番の近道だが昭和55年までのソ連時代は厳しい制限があり、北回り、羽田 アンカレッヂと南回り、羽田、香港、バンコク、ニュデーリー、カラチ、ベイルート、アテネ、ローマを経由していたが、いずれも24時間を超える飛行時間だったと思う。アンカレッヂの空港では零下20度の戸外を数分間経験し、空港内に日本人旅行者のために“うどん屋”があったこと、大雪の悪天候のためアンカレッヂ空港で4時間足止めを受けたことを記憶している。その後、シベリア上空経由の航空路が開放され現代では12時間程の飛行時間であるが、年を重ねるにつれこの長時間の狭いエコノミー席の苦痛に耐えられずファストクラスの旅に応募したことがある。N先生と二人で参加したが約20席あるシートに乗客は我々二人だけのことがあった。ミニバーも開設され食事はフルコースで一流のレストランで食べるのと全く遜色はなく大満足だった。ただ乗客が二人だけのため客室乗務員も仕事がなく常に監視されている気分で落ち着かなかったが、最近は高齢のためビジネスクラスの快適さを身にしみて感じるようになった。

■ 自分史 第56回

昭和56年、高度成長期を終了しバブル時代なるものに突入してきたが我々素人には区別が付きにくい。所要で大阪に行きホテルに帰る時タクシーが止まらず乗車拒否で素通りして行く。空車の標識が出ているのに不思議に思っていると友人が1万円札を振りかざしタクシーを止めてくれた。ニューオータニまでの近距離だったが乗車賃1万円を支払い乗せて貰うというわけだ。田舎者には想像出来なかったが私が体験したバブル時代の1万円札を振りかざさないとタクシーが止まらないという恐ろしい時代である。

昭和56年、医院を改築することにした。父が昭和25年建築以来30年を経過、木造建築物としては限界であり改築を与儀なくされた。もう少し早く改築すべきであったが、父の思い出の建物であり改築を言い出せなかった。

兄の同級生であった豊設計事務所に依頼した。設計に数か月をかけ病院は基本通りの設計であったが、住宅に贅をつくし、設計後、部分的に削除する方針をたて設計した。設計後、十数社が入札してきたが、最高額は竹中工務店の2億5000万円で設計をやり直し1億5000万円で清水建設が受注する事となり昭和56年4月より10月まで6ヵ月を要し完成したが手続きが大変だった。先ず、現在の医院の廃院届、仮診療所の開院届、完成後は仮診療所の廃院届、新しい医院の開院届、そのたびに診療報酬の変更届けを行うことになる。この間、近所の2階の仮診療所で診療を続け、両親と我々は別個にマンションの借り住まいとなったが、バブル期の夏休みとかさなり仮診療所となった2階は階段まで患者であふれる毎日だった。1日300人の外来患者を記録したのはこの時である。

昭和も終わりに近かづきバブルが弾けた時代となり、ずしりと借金が身に覆いかぶさってきた。当然、収入もバブル期に比し減少する。借金の返済、株の暴落による妻の失敗を補い、加えて両親の介護費用と苦しい時期が続き、返済する金額が減ると共に返済期間を延長せざるを得なかった。唯、息子に継がせる日までには全額返済をめざしていたが、全額返済したのは30年後である。

この頃 カラオケが始まった。歌が歌えることはすばらしい事である。鼻歌は歌えるが人前では歌えないし歌ったことがない。小学生時代から唱歌は苦手だった。医学部のクラス会の帰り道、カラオケを苦手とする同級生3人と天文館の帰り道、カラオケのない店を探したが、気にいらず自分達で店を作ろうと意見一致。今では想像すらできないが、3人で各々数百万を出資しスナックを開店、店の名はミスティと名付けられた。男のマネージャーを置きカテイサークを主にしたカラオケの無いシックな店でしばらくは好調であったが、所詮、素人が趣味で始めたことであり経営観念に乏しく5年で閉店となった。当然、3人共出資損となったが、いろいろな点で反省しきり、良い勉強になったと3人で慰め合いバブル時代の楽しくも残念な思い出である。

■ 自分史 第57回

海外旅行を重ねるうちに英会話の必要性を感じると同時に英会話に関心を抱くようになった。テレビのNHK英会話マーシャクラカワ先生の放送を聞きながら近所の英会話教室を尋ねたことがある。無料体験入学を覗いてみたが、OLはじめ子供連れの主婦らしい女性をふくめ約20人位いたと思う。いきなり順番に自己紹介を英語でさせられたが、いつの間にか参加者が減り7〜8人となった。いきなりの英語に戸惑い帰ったものと思う。数か月通ったが、時には女子高生と二人のこともあり英会話というより受験勉強的な指導になってきた。クリスマスが近づきでクリスマスソングを歌わされた。歌うことが苦手な私は口パクで誤魔化していたが大きな声で歌えと言われ止めることにした。その後、カセットテープをヘッドホーンで聞きながら独学で学んでいた。

N先生と二人、ドイツからイタリヤに観光に行った時、ローマからフランクフルト経由成田に帰国の予定だったが、ローマの空港でルフトハンザ航空のストライキに遭遇、ローマの空港で約8時間足止めをくらった。20時頃フランクフルトに到着した時、既に我々が予約していた全日空は出発しており途方に暮れた。全日空のカウンターはすでに閉鎖されルフトハンザ航空のカウンターのみ営業していたので、ルフトハンザ航空のカウンターで全日空の航空券を提示しながら、ルフトハンザ航空のストライキのため全日空に遅れた事を訴え明日以降の成田までの航空券を求めたい旨、英語で依頼した。初めてのトラブルで私の意思が通じるのか心配だったが、幸いに私の会話が通じ翌日の午後の航空券を手にいれた。私の英語が通じた事も嬉しかったが、個人的な旅行では自分でトラブルを解決しなければならないことを実感した。

翌日 チェックインして待合室で待機していると、オ−バーブッキングのため、明日の航空券と小遣い1万円を確約すると希望者を募り始めた。私達のチケットにはホッチキスで止めてあり希望者がいない場合、最初に省かれるのは我々だろうと、友人と囁いていたが希望者がいたのかそのまま搭乗でき帰国した。

オーストリアのウィーンに一人旅で訪れた時、ホテルからダウンタウンにタクシーで出かけ帰りもタクシーに乗ろうとしたが、行く先を告げるとドライバーが激しく喋りだした。何を話しているのか理解できず、オーストリアはドイツ語が常用語のため英語で話してくれと頼んだところ、ドライバーは英語で話しているという。日本では考えられない事だがドライバーの言い分は近距離なのでタクシーに乗らず歩けという事だった。ドライバーは近距離と言ったが地図を片手にホテルに帰り着くのに約30分歩いた。笑い話みたいな経験であるが、食事も買い物も高級な店ほど親切に聞いてくれようとするので何とか通じるが、早口で話されると全く理解できない。英語は敵国語という幼年時代を過ごしたので単語は判るが発音が苦手という我々年代の悩みの一つである。

■ 自分史 第58回

昭和56年夏 鹿児島県耳鼻咽喉科医会が“料亭金なべ”(現在は閉店)でおこなわれた。

当時、鹿児島県耳鼻咽喉科医会の活動は年に一回の忘年会と中央から送られてくる“鼻の日”、“耳の日”のポスターを配布することのみだったと思う。

会の席上、医師協同組合で出し入れしたテープが出席者に回覧され会計報告とされた。金額は殆ど使う事がないので僅かな繰り越金であったと記憶しているが、それにしてもお粗末な会計報告であった。会が進むにつれ幹事が今期でやめたい、後任に私を指名してきた。後任を指名された私は会計報告の杜撰さを訴え会計簿もないことを指摘した。中央との連絡責任者と兼任になり、このとき初めて鹿児島県耳鼻咽喉科医会の仕事にたずさわり、以後平成14年迄21年間携わることになる。連絡責任者として中央より送られてくる情報を成るべく早く会員に届けるため“医会だより”と名付けた機関紙を私の一存で発行した。この時が第1号で今日まで第170号と引き継がれているが嬉しいことである。”医会だより“第1号の後記に私はこう綴っている。
『医会本部より送られてくる資料、中央で開かれる会議の内容及び種々の委員会の結果を全会員に伝えることが連絡責任者の仕事と思っております。今後、”医会だより”が会員の先生方の、少しでも‘耳’となり‘鼻’となれば幸いです。』

鎌田政寛 花牟礼八十一 朝隈郁夫先生等の御指導、協力を得ながら会則の作成にかかった。同時に会計の杜撰さも露見されてきたが諸先輩の意見に従い不問とすることになった。会則と同時に会長はじめとする理事の役職を明文化し、はじめて医会らしい組織になってきたが、当時は鹿児島県耳鼻咽喉科医会の単独の会は無く地方部会終了後ひっそりと医会を催し役員は指名により決めていた。医会が単独で総会を開催したのは3年後である。

昭和59年5月6日 地方部会とはなれ医会として初めて単独で総会をグリーンホテル錦生館で開き役員を選挙で選ぶことにした。第1回総会で選ばれた役員は次の通りである
会長 鎌田政寛 副会長 田原睦郎
理事 吉満輝忠 松村益美 高木茂 貴島徳昭 江川俊治
監事 花牟礼八十一 朝隈郁夫
顧問 染河弘 尾立六次郎 江川久男

初めて総会を開催した年の昭和59年10月20日 ホテル鶴鳴館で第1回臨床懇話会を開催、テーマは 滲出性中耳炎で、現在では春、秋の2回臨床懇話会を開くように定着している。

平成2年、田原睦郎会長となり平成12年まで5期10年が経過した。その間、理事また副会長として東京で開かれた日本耳鼻咽喉科医会の全国代議員会に出席したが医会に加入している県が少なく代議員数より執行部の役員数が多いという奇妙な会であった。平成12年より会長となり東京で行われる全国医会長会議に出席し医会のため尽力をつくしたが2期4年間で辞めることにした。前会長が5期10年勤められたが、2期4年間で後輩に譲ることとし、その後、定着しているようである。

■ 自分史 第59回

「世界遺産を尋ねるエーゲ海クルーズ10日間」と「世界一周クルーズ」飛鳥の途中寄港に便乗しエーゲ海を二度クルージングしたことがある。コスタ・フォーチュナ号はイタリヤ船籍で総トン数103,000トン、全長272m、乗客定員3,470人という巨大な客船である。

ベネチアを出航するがベネチアの出入港シーンは圧巻である。最初の寄港地バーリで円錐形の屋根が並ぶアルベロベッロを訪れ、古代オリンピア遺跡が残るカタコロン、白い街並みが紺碧の海に美しく映えるサトリーニ島、絶景の夕日のミコノス島、世界遺産の城塞都市トブロブニクなど、歴史のある古都を寄港した。特に印象にのこるのは真っ青な海、白亜の家並みを絵葉書によく見るサントリーニ島である。サントリーニ島は小さな島で直接接岸できずテンダーボートに乗り換え上陸していた。上陸すると目前にケーブルカーがあり、到着した周辺に白亜の家並みがあり真っ青なエーゲ海を見下ろすことになる。ロードス島は船を下りるとそこは旧市街の城壁の前、街並み、石畳が中世の名残を感じさせた。ドブロブニクはアドリア海の真珠と呼ばれる城塞都市で城壁にとりかこまれた日本では見られない中世の街並みであった。

イタリヤ船籍のコスタ・フォーチュナ号は家族連れが多く船窓の無い低料金の部屋に乗船し、日中はプールサイドで楽しむ家族づれが多くみられた。日中はサンダルを履きタンパンで歩き回っていた男女が、夜になりそれなりの服装で踊っているのをみると国民性の違いを感じた。一人乗船の私は片隅から覗き見するのが常である。

クイーン・エリザベス号、クイーン・ヴィクトリア号で2回、欧州4ヶ国をクルーズしたことがある。サウザンブトン(イギリス)を出港、シェルブール(フランス)ロッテルダム(オランダ)ゼーブルージュ(ベルギー)とドーバー海峡を往復するクルーズである。

ロッテルダムに入港した時、入港が約2時間遅れた。腰痛のためツアーに参加せず単独で4時間のガイドを頼んでいたが、2時間遅れ実質2時間となり日本人のガイドは4時間のガイドを了解してくれたが、現地のドライバーが聞き入れず2時間だけのガイドとなり契約した時間以外は働かないという。その所為かロッテルダムの横道に入ると道路に塵が山と積まれ、日本の街並みの清潔さを感じた。ガイドによると、清掃業者のストライキでたまたま不潔になっていると話していたが、2時間に短縮された私にはそうとは思えなかった。私の感じでは4船の中でクイーン・ヴィクトリア号が最も親しみを感じたが理由は判然としない。レストランや各部署で働いているスチュアートが優しいような気がしたが、凡人は少し優しくされると全てを良く感じるものだ。

■ 自分史 第60回

日本船籍 飛鳥(総トン数 50,142)の世界一周クルーズの途中アレキサンドリア(エジプト)から乗船し、サントリーニ島(ギリシャ)、ピレウス(ギリシャ)、とエーゲ海をクルージングしてイスタンプール(トルコ)で下船したことがある。飛鳥の感想は日本船籍のため、殆どの乗客は日本人で安心感はあるが外国旅行をしている雰囲気に欠ける。飛鳥では主なスタッフ以外、ハウスキーパ、ウエイトレス等、大部分はフイリピン人が働いていた。

アレキサンドリアで乗船し避難訓練を終え11デッキの「海彦」に寿司を食べに行ったところ、先客が一人カウンターで食べていた。私は横に腰掛け昨日の深夜カイロに着き今乗船したことなどを話していたが、しばらくして同僚らしい人も現れ話し込んでいると横の人物が飛鳥の船長とわかり吃驚。末永く守りますと冗談を交えて末永守と自己紹介された。当日は停泊日で休養されていたようだ。翌日、パーサーより連絡があり船首の部屋で船長にティータイムのお茶を御馳走になり忘れられない思い出である。

昭和の時代はツアーに参加すると最初の夕食時に必ず自己紹介をさせられていた。殆どの参加者が夫婦同伴、女性同伴である。私はかなりの回数ツアーに参加したが一人旅の方と会った事は無い。しばらくしてお互い話すようになると、必ず奥さんは同伴しないのですかと尋ねられる。一人旅と説明すると怪訝な顔をされるので面倒になり家内は亡くなったと話すことにした。一人旅で不都合なことはないが食事時に気を遣う。メインダイニングでは各人席が指定されており常に自分の席が確保されているが、当然、相席となり一人身の寂しさを感じる。ビュッフェスタイルのレストランでは自由にいつでも食べられるが食事時間は混雑し一人で座れる座席をみつけるのが難しい。私は常に混雑時間を避けゆったりと食べていた。

クルージングで巨大な船に乗船するときは、中央より後部の船室が便利である。理由は船の中央より後部にレストラン、ラウンジが多く、船首に近い部に、シアター、ショップが配置されている。全長300mある巨大な船では食事の都度往復することになり、高齢になると下の階から上の階への往復に苦痛を感じる。バルコニー付の部屋が快適だが比較的階下の部屋は救命ボートや救命いかだ等の設備のため部屋からの眺望が妨げられることがある。高齢になり体が不自由になると移動が少ない船旅が最高だが私の感じではラグジュアリークラスのクルーズの船客に若者は少なく殆どが老夫婦で一人旅の船客に会った事はない。