■ 自分史 第31回

昭和30年代我々学生の酒は焼酎、トリス、ニッカのハイボールが主で千円あると一晩飲める時代である。因みに医学部の授業料は年間6000円、奨学資金は月3000円だったと記憶している。

友達と天文館によく飲みに行ったが、学生で懐が淋しく同年代のサラリーマンになった友人に御馳走になること屡々であった。
質屋にオリンパスのカメラを800円で質にいれ飲み代としていたが、飲み屋に8000円の借金ができ返済に困ったことがある。当時、医学書は高価で医学書を買うと母にねだり返済していた。

昭和30年代の天文館は活気があった。学生も今のように遊びが多様化せず単に酒を飲むことだけが唯一の楽しみという時代である。ムーラン、日米ビヤホール 白鶴、無邪気等良く飲みに行ったものだが、当時ムーランは高級バーでバーテンダーにいろいろ教わった。
カクテルの虎の巻きを貰いシェーカー、ミニボトルの洋酒を揃え我が家でカクテルらしいものを作ったことがあるが飲める代物でなく、我が家で飲むものではないと反省した。

当時、天文館の交差点にシグナルは無く、交差点の中央に台を置き警官が手信号で交通整理をしていたが夜間になると警官はいない。行き付けの酒場の女給が酔ったあげく、台を持ち出し天文館の交差点で交通整理を始めた。野次馬も集まり大喝采、今では想像できないが何となく粗野で楽しい時代だった。

全国医学生サマーキャンプが青森県酸ケ湯温泉で開かれ友人5人と参加した。国鉄で大阪、更に日本海側を北上、青森県弘前市の桜で有名な弘前城を見学、青森市よりバスで酸ケ湯温泉に宿泊、サマーキャンプに参加後、十和田湖を経て津軽海峡を船で渡り、更に国鉄で札幌に宿泊の予定が安いホテルが見つからず定山渓まで足をのばし宿泊した。
更に層雲峡、網走、これよりバスで南下、摩周湖、阿寒湖を経由この先あまり記憶にないが登別温泉更にバスで函館、青函連絡船で青森、岩手県、平泉の中尊寺を見学、仙台、松島を観光後、東京から各自鹿児島に帰った記憶がある。

当時、飛行機はなく国鉄の急行列車が最速の時代で今思い出すと若さで行けたと思う。
全行程を美坂幸治君が仕切り、列車、船、バス、とすべての時刻表を駆使して彼が計画をたて我々は彼の指示に従うのみだった。
数か所は彼の手配で国立病院の宿舎に泊まり、全行程を2週間で周遊し2万円位の費用だったと記憶するが昭和32年の事で正確な記憶がない。安く、スムースに旅が出来たのは今は亡き美坂幸治君の御蔭と感謝している。

■ 自分史 第32回

我々一期生は僅かに43名の少数で女子学生がいなかったせいか、お互い堅い絆で結ばれていた。卒業後50年余りになるが、年に4回定期的に親睦会をおこなっている。残念ながら年々出席数が減るが仕方のないことだろう。

当時、ボーリングは無く、ダンスに興じる友人もいたが、私は麻雀グループに属し友達の家を転々とした。
交通の便利さと個室をもっていた我が家が次第に拠点となりホームグランドと化し、連日、時には、夜中に"夜泣きうどん"を食べながら連夜麻雀をしていた。あれほど厳格だった父親は何も小言を言わなくなっていたが、友人に代返を頼まれ帰宅するとその友人が我が家で他の友人と共に上がりこみ麻雀をしているのには驚いた。
徹夜で麻雀をしていると朝方、母が女の人が迎えに来ていると知らせにきた。友人の彼女が迎えにきていて両親もすこし唖然としていたようだが、一言も小言はいわなかった。

昭和28年、NHKが日本で初めてテレビ放送を開始したが、鹿児島では昭和33年に放送され街では「テレビ喫茶」が出現繁盛した。最初に打撃をうけたのは自転車の後ろに乗せて走りまわっていた紙芝居で、テレビの出現と共に紙芝居は路上から消えた。
勿論、白黒テレビで月収3万円、テレビが30万円という時代で、街頭や床屋で黒山の人だかりの中で力道山のプロレスを見ていた。
相撲好きで、なかでも朝潮(大島出身 横綱)の大フアンだった父は応接室にテレビを購入、朝潮の取り組になると診療は中断して、患者と共にテレビの前で声援を送っていた。

戦後の交通手段は自転車が主だったが、公共輸送機関が麻痺状態となり、より高速で輸送効率の高い乗り物の需要が増加した。この時期に登場したのがオートバイ、そしてスクーターが発売され、父が富士重工のスクーター・ラビットを購入、私も時々乗り回していた。225cc空冷でキックしてエンジンをかけていたが、ボディデザインが「うさぎ」のイメージと重なり、飛び跳ねるうさぎの姿を連想させるところから命名したようだ。
自動車はまだ高嶺の花の時代でスクーターに乗るのがステータスの時代だったが、スクーターの後部に若松耳鼻科の文字が入り、雨が降るとびしょ濡れになることが難だった。

医学部に入学し、「一切口出ししなくなった父のスクーターの後ろに女性を乗せ、天保山公園に夜行ったことがある。
3人の不良グループに囲まれたとき、一人がスクーター後部の若松耳鼻科の文字を見つけ、若松耳鼻科の息子ということで難を逃れたことがある。何が幸いするか判らないものだ。

映画を女性と観に行ったとき、上映中に一人の小父さんが彼女の横に座ってきた。薄明りの中、良く見ると映画好きの親父だ。途中館内が明るくなると間違いなく親父だったし、父も我々に気づいていたと思うが素知らぬ振りをしていた。親父なりに気を使ってくれたのだと思う。

浪人時代煩かった父は医学部入学と同時に約束通り一切口出ししなくなったが、この時期親父と屡々ナイトショーを見に行ったり、ラーメンを食べに行った思い出がある。こういう時間があったので父との蟠りも解消され、この頃が父と私が一番近くにいた時期だったと思う。

■ 自分史 第33回

医学部に入学した昭和30年から卒業までの4年間は様々な思い出の4年間である。

昭和30年

戦後10年のこの年国立鹿児島大学医学部一期生として入学したが、一クラス僅かに43名で最年長者は大正生まれ、最年少者は昭和10年生まれで年齢格差は10数年に及んだ。

校舎は現鹿児島大学教育学部付属中学校付近にあり、周辺は草原で現在の電車道は市営バスが砂煙をたてながら走っていた。電車は唐湊が終点で丸屋デパート前から市営バスで通学していたが、この年から昭和32年にかけて神武天皇以来の好景気といわれ「神武景気」と呼ばれた時代である。

郊外では、まだ小川にメダカや鮒が泳ぎ夏にはホタルが乱舞していたが、市内は戦後の復旧のため道路、建築物の建設ラッシュで埃に塗れていた。世の中は鳩山内閣で石原慎太郎の「太陽の季節」が発表され、慎太郎刈りが流行りトランジスターラジオ、電気釜が売りだされ公務員の初任給8700円という時代である。

昭和31年

第三次鳩山内閣がソ連との国交回復の交渉をはじめ、「もはや戦後ではない」いう言葉が流行した。

この年、輸出が急激に伸びGNPは10%の伸びを達成し、戦後は終わり新しい時代が始まった年と言われたが我々の生活に左程の変化はなく、テレビ等電化製品の姿も無く団扇に扇風機で暑い夏を過ごしていた。我が家の変化といえば自転車がスクーターに変わったことだろうか。

医学部周辺の民家は疎らで食堂も無く、殺風景でとても医学部がある雰囲気ではなかった。

昭和32年

臨床医学になり大学病院(現、医療センター)に教室が移動、当時は名山通りから大学病院前を通り岩崎谷を経由して柳町まで市電が運行していた。市電で通学していたが、木造平屋の校舎から移転したため何となく大学に通う雰囲気になってきた。

この年、岸信介内閣誕生、コカ・コーラが日本で販売を開始。こんな美味い飲み物があったかと日本国民が歓喜した。
同時に「3人娘」美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみが華やかに登場した時代である。

臨床医学になりまじめに通学したと思うが、交通の便が良く個室を持っていた我が部屋で麻雀が本格的に始まったのもこの頃である。

昭和33年

第2次岸内閣が発足し、国会は安保条約改定をめぐり大揉めに揉めていたが、この騒ぎを沈静化するように美智子妃のミッチーブームが起きる。
NHKが昭和28年にテレビ放送を開始。当時は高額で普及しなかったが、ミッチーブームを機に、更に東京タワーが完成したこともあり、鹿児島でも爆発的にテレビが普及し我が家もテレビを購入。今までは映画館でしか見ることの出来なかった映像を自宅で見る事に驚愕した。勿論当時は白黒テレビである。

この年スポーツ界では長嶋茂雄が巨人軍に入団、力道山、栃錦、若乃花の絶頂期である。

この年厚生省が「栄養白書」の中で日本人の4人に1人が栄養不足であると発表したが、この頃の平均寿命は男性65才、女性69.6才と現代に比べてかなり短い。
同時に日清食品から世界初のインスタントラーメン「即席チキンラーメン」が発売され、「魔法のラーメン」と呼ばれ1袋30円だったと記憶しているが爆発的に売れた。

この年の大流行にフラフープがある。売春禁止法が実施されたのもこの年で、鹿児島でも沖の村の遊郭や近隣の赤線の灯が消えた。遊郭に行くことに躊躇し思案したといわれる思案橋が城南町に現存する。

昭和34年

4月10日、皇太子御成婚を期にテレビが普及したが、当時は公務員の初任給の6ケ月分と高嶺の花で街頭や散髪屋で視ることが多く、テレビを見せるテレビ喫茶が出現した。

今日、日常生活で使っている殆どの生活用品は昭和32年から昭和34年の間の電化ブームにより出揃い、この3〜4年間であの貧しかった戦後の生活から脱け出した感じである。

■ 自分史 第34回

昭和34年5月東京都立広尾病院でインターンのため上京した。
飛行機はなく国鉄の急行「霧島」で約一昼夜かけ上京したが、冷暖房はなく車窓を開け黒煙を佩きながら走る列車で東京に着く頃は煤煙で真っ黒である。

初めての東京は皆目わからず、品川の義姉の親戚にお世話になり広尾病院に近い元広尾町に下宿した。
エビス軒と名のる洋食屋で二階が5部屋ほどのアパートになっていたが、アパートとはいえ現代風の快適な部屋ではない。冷暖房は勿論浴室もトイレもキッチンもない時代で4畳半の殺伐とした1間である。トイレは共同、入浴は銭湯に行くことになる。朝夕の2食付きで月8000円だったが殆ど食事はしなかった。

御主人は河上さんという優しい、雨が降ると病院に傘を持ってきてくれる親切な小父さんだった。
最近、昔を懐かしみ近所を徘徊したことがあるが、河上の表札はあるが洋食屋の面影はなく単なる住まいとなっていた。

現代では広尾といえば、セレブの町、高級住宅街の印象が強いが、当時は、近所によく散歩した有栖川公園、祥雲禅寺、銭湯、郵便局、映画館、飲食店と下町の風情があり、あちこちに空き地が散見された。あの時あの空き地を僅かでも買っておけばと悔やまれる。

昭和34年時代の東京はまだ都電が走り、広尾病院のある天現寺は品川から渋谷、四谷と便がよく、都電に乗り渋谷によく行っていたが、都内の至る所で5年後のオリンピックを目指し高速道路建設ラッシュで足下駄が乱立していた。

戦後、日本の臨床研修は臨床実地研修制度ではじまり、大学卒業後、1年間の「実地研修」を終えた後に医師国家試験の受験資格が得られたが、現在は大学卒業後すぐに医師国家試験を受け医師免許を得ることが可能である。
当時は労働面では医師免許がないにも関わらず医師同様の仕事をおこないながら全く報酬はない。当然、インターン生は生活費を稼ぐため医師の資格がないまま開業医の当直等アルバイトに依存していた。現代では研修中のアルバイトを禁止し月額30万円余りが支給されると聞いている。

東京都立広尾病院は明治28年に開院された歴史ある病院で、昭和55年改築され現在は鉄筋の堂々たる病院になっているが、当時は木造3階で玄関も回生橋を渡り入っていた。
インターン生は約20人、鹿児島から川上明之君と二人で、大部分は群馬大、慈恵大、昭和医大等関東圏の卒業生だった。1グループ3人で大塚君、三浦君と1年間研修したが楽しい思い出だけが残っている。

各外来、手術に参加するが我が家で外来を手伝った経験があるため、他のインターン生よりは耳鼻科実習にすぐれ、耳鼻科のドクターに頼まれ午後の外来診療を無免許の私にまかされたことがある。勿論、医師法違反に違いないが戦後15年のこの頃までは無資格のインターン生が堂々と開業医の夜間当直に出かけ報酬を貰っていた。父親が急病で夜間往診を依頼したら同級生が駈けつけてきたという笑い話みたいな話がある。

手術の実修中患者が動くのでナースに腕を縛る意味でキビッてくださいと頼んだところ看護婦が唖然としていた。宮崎県出身のドクターがそれは方言ですよと教えてくれたのが忘れられない思い出である。

■ 自分史 第35回

父は東京でのインターンに反対であった。1年後には鹿児島に帰ることを約束させられていたので1年間で出来るだけ多くの東京を満喫するように務めた。

上京して最初に訪れたのが東京タワーそして皇居前広場である。
東京タワーから眼下に広がる東京都を眺めながら東京に来た実感と何となく都会人という雰囲気に浸った。皇居前広場では終戦当時国民が土下座し皇居に対して頭を下げている報道写真が頭に浮かぶ。

休日の度に浅草、雷門又都電に乗りよく渋谷を散策していたが、軍国少年として戦前をすごしたので靖国神社、明治神宮も参拝した 渋谷は現在のように渋谷109、パルコはなく雑然としたなかに忠犬ハチ公の像だけが記憶に残っている。

渋谷で原信夫とシャープ&フラッやバッキー白片とハワイアンズを聞きながらお茶を飲んでいたが音楽に殆ど関心は無く東京での思い出のために聞きに行っていた。国技館で大相撲を見たり夜は渋谷の東急文化会館の寄席に行っていた。三遊亭痴楽(綴り方教室)、牧伸二 かしまし娘 林家三平の華やかな時代である。

天現寺近くの恵比寿は現在都心でも有数の商業地であるが当時は日本麦酒恵比寿工場があり閑散としていた。明治23年に恵比寿ビールが誕生しその後、渋谷区恵比寿という地名が誕生し「エビスビール」の名前が街の名前になったそうだ。

広尾病院の旅好きの看護婦グループに誘われインターン生5〜6人が連れ立ち夏は奥多摩湖や筑波山に冬に群馬県の万座温泉にスキーに行ったことがある。勿論スキーは初めての経験で2泊したが2日で直線的に50メートル位滑るのがやっとだった。

夏になると両親が訪ねて来た。当時はホテルも無く下宿先の4畳半に約1週間滞在し鬼怒川温泉、富士五湖、歌舞伎の鑑賞に出かけた。兄も都内で開業を望み二人で国立市や周辺の土地を探索にいった記憶がある。

インターンの後半恵比寿の日の丸自動車練習所に通い運転免許を取得したが、今では当然とされている練習所が開かれて間もない頃である。

当然、医師国家試験を受験するので勉学にも励んでいた。
暖房は無く小さな火鉢に小さな炭を2〜3個入れ、手の掌だけを温めながら受験準備をしていた。試験が近づき慶応大学医学部で受験対策の講習会があり四谷まで参加した。
我々同級生は聖路加病院、国立大蔵病院、日本赤十字病院、自衛隊中央病院でインターンをしていたが四谷の居酒屋に集まりお互いを励ましたことがある。僅かな一時だったが学生中とは異なる雰囲気だった。

小さな4畳半での無味乾燥な生活の中で母が時々豚味噌や食糧品を送ってくれた。夏休みに一度帰鹿したことがある。勿論、国鉄の急行で24時間を要した。
寝台車で帰ったが寝台車は夜になると上中下3段に分かれる。偶然沖縄出身の女子学生と同席となり、私が予約していた下段の席を彼女の上段に譲り、話していると沖縄に帰るのに一泊しなければならないが宿がないという。

当時は現代の様にホテルは無く宿を見つけるのが大変な時代である。鹿児島駅に迎えに来ていた母に事情を話し我が家に泊めたことがある。夜、私のために「すき焼き」を用意してくれていたが彼女も同席した。
翌朝沖縄に帰って行ったが両親は私が彼女を連れてきたと思ったらしい。

1年間のインターン生活はあっという間も無く終わり、心配した母が東京まで迎えに来てくれたが連れ戻された感じである。

■ 自分史 第36回

昭和35年4月インターンを終了し帰鹿、鹿児島大学医学部大学院に一期生として入学、同時に耳鼻咽喉科教室に入局した。
この日より学生生活は終わり人の為、世の為に尽くす医師としての生活が始まる。

教室の歴史は昭和18年鹿児島医学専門学校として設立され、初代教授寺師忠雄博士は既に昭和16年に応召されており、昭和20年硫黄島で戦死された。昭和21年野坂保教授が着任され、昭和31年3月より久保隆一教授が3代目の教授として主宰されていた。

本来長男である兄が我が家耳鼻科を継承すべきだが、兄は既に産婦人科教室に入局していたので暗黙のうちに耳鼻科に入局することとなる。7月に医師国家試験に合格、晴れて医師となったが身分は大学院学生である。授業料を払い、務める内容は教室員と全く同じだが無報酬である。

教授の意向で大学院学生である私にだけドイツ語を学ぶことを指示され、週に一度ドイツ語の添削が義務づけられた。毎晩11時から始まるNHKのドイツ語講座を聞いていた。
教授自身も学んでおられたらしく、テキストを購入すると私の名前が成積優秀として掲載されていた。私は応募した記憶がなく教授が私の名前で応募されたらしい。

カルテはすべてドイツ語で記載するが、全く判らず先輩が記載した文章を参考としていたが、月日がたつと大体同じような文章となる。回診のたび教授の眼にふれると赤鉛筆で訂正されカルテ一面真っ赤になることもある。
ドイツ語より日本語でより詳細に記載したほうが良いのではと思うこともあったが、ドイツ語で書くことが教授の方針だった。

先輩のカルテを覗くと毎日の診療欄にdoと記入されている。私も真似て単にdoと記載していたが、教授に指摘されドイツ語のdettoの略字であることを初めて知り、略語を書く時は原語を知るよう教示された。

当時、教室員は助教授を含め僅かに7人、入局と同時に戦力の一人として勤務、外来診療は勿論入院患者、手術のアシスタント等働くことで精一杯、大学院学生としての研究等の余力はなかった。
外来は今では面影もないが旧医学部付属病院(現、鹿児島医療センター)の2階にあり、冷暖房はなく窓を全開にして扇風機が唯一の涼を送ってくれた。特に聽力検査室など密閉された部屋での検査は検者も患者も汗だくだくである。

外来には4台の診療台があり額帯反射鏡を使用、当時は医師のシンボルとして額帯反射鏡と聴診器が描かれていた。現代のようなクリニカライトやユニットはなく、机の上に回転式の薬瓶が並び、吸引器も無い。全患者に鼻腔洗浄を行いチリ紙で鼻を拭かせ、耳管通気療法はゴム二連球でおこなっていた。

午前中は外来診療、隔日に午後は手術である。
入院患者6〜7人の主冶医となり受け持ち患者一人一人の全身に聴診器をあて、耳朶よりメランジュールで採血、希釈し赤血球、白血球をはじめとする血液検査や尿検査すべて各主冶医がおこなっていた。
現在の様に検査室はない。

午後から始まる学生の講義の準備もある。
昼飯の時間もなく準備のため教授室に伺うと、メモ用紙に準備するものがドイツ語で書いてある。時間がなくドイツ語を訳すのが大変だった。
講義室では最前列に座り、教授が書かれる黒板の文字をタイミングを図りながら消していく。タイミングが遅いと教授に叱られ、早すぎると学生から苦情がくる。私が在籍した8年間の教室生活の始まりである。

■ 自分史 第37回

毎朝8時30分に出勤、毎夜7〜8時に帰宅の連日である。日が経つにつれ想像をしていなかった教室の忙しさと同時に教授の几帳面、厳格な性格が判ってきた。

当時、耳鼻科、眼科等は学生に人気がなく、産婦人科が大人気の時代である。加えて教授が厳格となると学生間の人気は無く当然入局者も少ない。内科、外科、産婦人科は数十人を超える医局員に対し耳鼻科は助教授を除くと僅かに6人である。入院患者30数名に医師一人で5〜6名を担当することになる。

日夜、病院と自宅の往復のみで仕事に歿頭していたが急に結婚の話がもちあがった。

現今では交際期間5〜6年とか婚前旅行という話を聞くが、戦後15年の此の頃は昔堅気の残る時代である。私自身、左程、結婚に憧れも無く念頭にもなかったように思うが話が進んでいった。
我が家の二階で世に言う見合いが行われたが私の両親、相手の両親と何故か叔母なる人物が同席していた。この叔母なる人物が物凄く積極的だった記憶がある。

僅かに4カ月程で完全な見合い結婚をしたが、その間、父と3人で寺山公園に行った憶えがあるが、何故父と3人で行ったのか憶えがない。二人でお茶を飲んだり、映画を見に行く事も無く、一度だけスクーターの後ろに乗せ鴨池の海岸に行った記憶がある。
今、思うに交際期間が無くお互い良く理解せず結婚したが、当時は仕事優先で仕事第一の世であった。

結婚式場は山形屋7階のホールでおこなったが、当時は現代の様な派手な結婚式場は勿論のことホテルも少ない時代である。土曜日の夕方に式が始まったが午前中まで勤務していた。
新婚旅行は僅かに4日間、宮崎観光ホテル、えびの高原ホテル、そして横川の実家に1泊と今では考えられない素朴で簡素なものだった。
教室員は全て私の先輩で、私の結婚に続き二人の先輩が結婚したが、勤務が忙しく教授に結婚を云いだせなかったのだろう。

1年後長女が、4年後長男が誕生したが、いづれも外来診療中電話で長女、長男の誕生の報告を受けた。出産に立ち会い痛みを分かち合おうと手を握り励ます光景をテレビで見たり、育児休暇で職場を休む話を聞くが、時代の違いだろうかそれほど迄にと違和感を感じている。

世の中で良くある話だが、結婚後、日が経つにつれお互いの欠点が目につくようになる。
時間に全く関心がなく、両家で顔合わせの会を山形屋の社交室で催したが、始まる1時間程前に美容院に行くと云いだした。当然、開始時間に間にあわず集まった親族は1時間程待たされたが、彼女の両親、親族も一言の不満を述べず静かに待っている姿に奇異を感じた。

1階に両親が我々は2階に同居していたが1軒家に住むこととなり、薬師町に転居したが私の身分は学生で報酬は無い。
父より毎月2万円を貰い家賃が8千円、私が週に1回午前中に専売局病院に出向き得られる3千円、学生の私に当直の義務はないが、先輩に頼まれ時々当直をしていた当直料は一晩500円である。これらの収入で生活をしていたので楽ではなかった。
病院への往復は父のスクーターを借り、雨の日は雨カッパを被りずぶ濡れになりながら出勤していた。雨カッパを纏い病院に入ろうとした時、ラーメンの出前と間違われ守衛に止められたことがある。

■ 自分史 第38回

懸命に働く毎日が続いた。当然、家庭サービスは怠りがちである。

日が経つにつれ医局員が少ないため多くの仕事が当てられ、外来診療の傍らポリクリ(学生実習)のため患者の選択をする。
一人の患者を学生4〜5人で実習をするが、当然、学生が患者の耳、鼻、のどを検査することになる。患者にとって嫌なことに違いないが、最後は教授の診察が得られることで患者を説得しお願いするが、誰でもが好意的ではない。患者を選ぶのに大変気を使った。教授の厳しい教育に学生は耳鼻科のポリクリに戦々恐々の態であったので、質問される箇所を予め学生に指導していた。

当時は現代の様なアレルギー性疾患は少なく、副鼻腔炎、鼻炎、中耳炎、扁桃炎等が一般的疾患であったが、食道異物、気管支異物が今日に比し格段に多かったように思う。

戦後15年の当時は現在のように菓子の種類も少なく、多くの子供達がおやつに落花生や雀の卵(落花生を原料とした醤油味)を食べていた。同時に10円玉を口に入れる習慣も残っていた。電気事情も悪く、頻繁に停電になると停電に驚き誤って飲み込む症例も見受けられた。

現代では異物摘出は全身麻酔で行うが当時は無麻酔である。食道異物は異物を摘出するが、摘出困難な場合は鯨骨ブジーで胃に落とし便に排出させることもあった。

10円硬貨の食道異物は私が開業した昭和40年代も続き、自院で摘出していた経験がある。食道検査も無麻酔で、ボートを漕ぐような特製の椅子に座らせ、上体を前方に倒し、助手が患者の背中と首を固定し、口腔と食道が一直線になる姿勢で硬性の食道鏡を挿入していた。

食道異物は生命に関わることはないが、気管支異物は呼吸が出来なく最悪死にいたることがある。当時は県下に総合病院が少なく、県下の異物患者は全て大学病院を受診していた。受け入れ側は休日や時間外に急患として来院されると当直は大変だ。急患はすべて教授に報告し指示をうけ、症例によっては教授自ら来院される事もある。

宮崎県小林市の3才の男児が気管支異物のため、小林市、都城市を救急車で回り、どこも受け入れてもらえず、救急車の中では小林市立病院の医師と看護婦が乗り込み、酸素吸入を続けながら10軒目に夜11時頃我々の耳鼻科に搬送されてきた。教授に報告し現在呼吸困難がないため、入院安静とし翌日気管支異物摘出を行うこととした。
深夜になり突然患児が呼吸困難となり仮死状態、たまたま当直していた私はベッド上で緊急気管切開を無麻酔で行ったところ、幸いに切開口よりピーナッ片が噴出し、人工呼吸を繰り返し一命をとりとめた。

翌朝教授回診があり、切開の位置が悪く套管抜去困難症の危険性があるとして教授により再切開が行われ、教授室で慎重に正確な位置に切開をするよう叱責を受けた。
緊急の事であり、ベッド上での切開ではその余裕もなく、危機を脱した切開を評価して貰いたかったが、教授はその事には一言も触れられなかった。

後日、鹿児島地方部会で一例報告として報告。勿論、私の切開の位置が悪く、再手術を受けたこともつけ加えた。
発表後、教授は発言をもとめられ、当時の緊急の状況でベッド上での切開をおこない、一命を救った私の処置は適切であったと賛辞の言葉を述べられた。予期せぬ発言に嬉しかった思いがある。

後日、話題として南日本新聞に掲載され、今でもセピア色に変色した新聞記事の一片を大切に保管している。何故報道されたか不思議に思っていたが、教授の配慮によるものだろう。

■ 自分史 第39回

現代では溢れる程の抗生剤をはじめとする薬剤、様々な検査機器に恵まれているが、当時はサルフア剤があり抗生剤ではクロロマイセチン、ペニシリンが主流である。

私が入局した頃の喉頭検査は間接喉頭鏡検査だけでファイバースコープは存在しないし手術用顕微鏡も無い。絞扼反射の強い患者は喉頭巻綿子でコカインを塗布しながら反射を抑え検査していたがどうしても反射のとれない患者もいた。振り返ると喉頭癌の患者を間接喉頭鏡のみで診察治療し、鼓膜切開も肉眼で行っていたが良く事故もおこさなかったものと不思議な気がする。

失敗例もある。
外来に呼吸困難を訴える患者が来院、間接喉頭鏡で検査するが呼吸困難を訴えるため判然としないが、食道入口部に腫瘍らしきものが存在し気道を圧迫しているようだ。緊急気管切開を施し気道を確保し組織検査のため喉頭疳子で腫瘍の一部を掴んだところ一塊の肉塊が除去された。腫瘍ではなく肉塊による食道入口部異物で除去後、呼吸困難は軽快したが現代ではありえないミスだと思う。

全身麻酔が行なわれたのは数年後であり、手術用顕微鏡が使われるのは昭和30年代後半であり、ファイバースコープが使われたのは昭和50年代と記憶する。簡単な手術は勿論の事、喉頭癌の手術も局所麻酔で行っていた。50数年前のことだが今では信じられない話だ。

小児科に入院中に症状が改善されず、気管支異物の診断のもとに耳鼻科に転科されてきた小児がいた。 手術室に入ろうとした時、高校時代の友人が立っていたが患児の父親で涙を流しながら息子を助けてくれと哀願された。幸いに気管支異物を摘出、元気になり退院した。

その後、私が開業したあとも父親が息子を同伴して感謝の気持ちを抱きながら毎年退院日に訪れてくれたが、異物を摘出し無事に助けてあげられて本当に良かったと思う時だった。当時は小児の気管支異物で命を落とす症例が多くみられた時代である。

近隣の耳鼻科開業医より救急で搬送される患者に鼻出血も多かった。止血困難で搬送されてくるので外頚動脈を結紮することもあったが、ベロック氏のタンポンを挿入すること屡々だった。挿入する事に患者はいやがったが止血にはやむを得ず、挿入後成るべく早く除去しなければ耳管をとおして血液が中耳腔内にはいり鼓室血腫をおこすことになる。

鼻腔内にガーゼが挿入する時、除去する時の痛みを軽減するため色々な工夫が施こされていた。現在のような吸収性に優れた局所止血剤は無く、高野豆腐の吸収性を利用しガーゼの代用として用いられた事があるが、今では信じられないことだ。

■ 自分史 第40回

手術日になると手術予定簿を婦長が教授室に持参。執刀医とライター(指導医)が決められる。

入局して間もない頃、先輩と共に鼻中隔矯正術をおこなった。術中、せつ(鼻中隔の湾曲した部)の剥離が難しく慎重に剥離したが小豆大の穿孔ができた。この程度は大丈夫と先輩と慰めあいながら除去した鼻中隔軟骨を穿孔部に当て補足して術を終えた。

数日後、鼻腔内のタンポンを除去すると辺縁が少し萎縮したためか穿孔が心なしか大きくなったようだが軟骨はしっかりと当てがわれていた。1週間後に迫った教授回診には表面の形が整い穿孔しないよう祈るばかりであったが、意に反して毎日診るたびに穿孔縁が拡大するような気がし軟骨もぐらついてきた。そっと押してみると老体のようにふらつき助けてやりたいがどうする事もできず只軟骨にがんばれと声援をおくるのみである。

教授回診は迫って来るし術創は回復せず、憂鬱な毎日であったがグラグラしていた軟骨が周辺の汚物を吸引していた時、突然吸引器の先端に付着し外れてしまった。冷や汗と同時に顔面蒼白、気を取り直し反対側より巻綿子を挿入してみると巻綿子の頭が出てくるではないか。思案すること1昼夜、教授の性格から切腹はては甲突川畔に晒し首か、幕末の志士もかくやあらんと意を固め(司馬遼太郎,池波正太郎の愛読者です)教授室を訪ねた。

教授室の前は常日頃、抜き足、差し足、忍び足で歩いていたが教授室の扉の縁に縦長の細い案内燈が埋め込んであり、教授室に入る時ブザ−を押すと異常に大きな音と共に"お入り下さい"が点燈するが一瞬の出来事である。この一瞬の点燈を在局中不思議に思っていたが、運悪く瞬きと一致すると何時までも点燈しないような気がする。判断に迷い呆然と立っていると教授が足早に出て来られて"何をボ−ット立っとるな"と一喝。逆に点燈した気になって入っても大変である。

点燈を確認し教授に経過を報告した。"自動車の運転と同じだよ、少し上手くなった時事故をおこすものだよ"今後注意するよう指導されたが、あの厳格な教授の思いもよらない言葉に気合が抜けた。教授が免許をとられたばかりで暇をみては県内を走り回り時々事故を起こされている事を知っていたが、世の中何が幸いするか判らんものだと思いながら部屋を出ると夕日のせいか何時もは薄暗い教授室の前が明るく見えた。