昭和21年になると、天皇陛下の人間宣言、更に極東軍事裁判(東京裁判)がおこなわれ、所謂、戦争犯罪人が摘発され裁判が始まった。敗戦の悲哀と同時に書物でよんだ日本の戦国時代を彷彿とさせた。
鹿児島市での復興の兆しは早く、名山堀周辺に闇市ができ、食料品、古着、古本、軍需物資、そして銀シャリの握り飯が売られ、食べたくても横目で眺めるだけだったが、今でも目に浮かぶ。
闇市では焼け跡や空き地が不法占拠され各人が持ち込んだ品を勝手に売買していた。闇市は繁盛し品薄になるにつれ物価は高騰したが仕方なく利用していたようだ。米は戦時中から、食糧統制法により自由に販売はできなかったが、農村から取り締まりの目を掠めて運んでいた。
闇市の大半は戦地よりの復員兵が関わり、次第にバラック建ての商店となった。
昭和24年にはGHQの撤廃命令で消滅したが、鹿児島中央駅付近にある常設朝市は戦後闇市の名残といわれている。当時は現在の天保山から鴨池に至る国道より海側、サンロイヤルホテル付近は海だったので、予次郎ヶ浜周辺では大釜を据え、海水を煮立て塩を作り、海藻に自家製の塩を入れ、煮込んだものが醤油として売られていたが、今の醤油とは似て非なるものである。
山形屋の一階では映画館とは名ばかりの、周囲を莚で囲って上映していたが見た事はない。当時は農学部の前に住んでいたので電車も数少なく、往復歩いて出かけたが殆ど出かけることはなかった。
最大の悩みは食料が無かったことだ。敗戦と同時に見舞われたのが食料難である。
戦争は終わったが日本国中の都市は破壊され、焼け野原と化し、多くの人々が召集されたので、当然、働き手が不足し日本の経済も農業も壊滅した。
現代の飽食の時代に想像することさえ難しいと思うが、配給される黒パン、ふすま(小麦粉を製造したあとに残る種、皮のくずで家畜の飼料)、だけでは生きていけず、唐芋(現在の甘味のある薩摩芋ではなく品種は農林2号)、カボチャ、団子汁を主食とし、米を食べることは殆ど無かった。
焼け跡を整理し土がでてくると野菜や芋を植えたが、少しでも腹の足しになるように唐芋やカボチャを植えた。カボチャは発育が良く地面から軒下まで蔓を這わせ比較的栽培しやすかったのだろう。云うまでも無く現在のように甘く美味しいものでなく、満腹感を満たすだけの大きなカボチャである。
勿論、我が家の小さな空き地に唐芋やカボチャを植えた。
当時、化学肥料等は無く人糞が肥料で、又、水洗トイレも無く、便槽に貯めていたので廃棄するためにも畠に撒いていたと思う。人糞を撒いた周辺は悪臭に満ちていたが食べる事に精一杯の時代であり、それでも大人も子供も慢性的な栄養失調状態となり農村地域との物物交換が行われ、食料を求めて買い出しに右往左往する毎日だった。
家庭菜園では人糞をばら撒き、裸足、素手で畑の手入れをしていたので寄生虫、特に回虫、曉虫、鞭虫が多発し「サントニン」「海人草」を強制的に飲まされた。頬の皮膚が乾燥すると回虫がいるといわれ、当時中学生だったが、ある日、排便中に「みみず」みたいなものがでてきた。10センチ程の回虫で忘れられない経験である。
東京医科大学藤田紘一郎教授は講演の中で回虫が寄生しているとアトピーや花粉症にならないと話しておられたが、確かに終戦当時、アトピーや花粉症らしい人をみかけることは無かった。
昭和21年、川内に開業した父に従い母も川内に移り住み、市内の樟脳会社に勤めていた母の妹、小牧泰二、三世子夫妻が長男春夫と共に移り住んできた。
この日から昭和25年4月迄の5年間、小牧家に兄と共に居候をしながら通学した。この5年間は私の生涯の僅かな5年間であり、振り返ると60数年前の僅かな5年間であるが、今でもこの5年間の毎日が鮮明に蘇る。敗戦の翌年から始まる5年間で現代では経験できない5年間と私自身は誇りに思っている。
幸いに住まいは戦災から焼け残り確保されていたが、その建物は老朽化し台風が来るとあちこちで雨漏りがする。
この時代、台風が頻繁に襲ってきた。家が無く、防空壕で生活する人々も大勢いたので住まいがあるだけでも感謝すべきだが、一度台風がくると2週間は停電が続いた。今では左程、強くない台風でも当時の木造の古家、バラックには大きな損害を与えたと思う。
米軍占領下の当時は台風の名前にキティ台風、ジエーン台風、カスリーン台風と女性の名前をつけていたが、昭和26年講和条約が発効して以来、台風1号、2号と番号順に名付けられるようになった。
小牧家は叔父が風呂敷に弁当を包み徒歩で出勤すると、夕方には判でおしたように帰宅する、サラリーマン小説にでるような平凡の中にもほのぼのとした一家だった。
叔父は饒舌ではないが、寡黙でもなく、時に羞みながら笑いを誘う表情が印象に残っている。一度だけ天文館で叔父と二人で酒を酌み交わしたことがあるが、微笑みを浮かべながら美味しそうに静かに飲まれた姿が目に浮かぶ。今、この世におられたら、もう一度酒を酌み交わしたいと思わせる叔父だった。
神戸育ちの叔母は終戦当時とはいえ、都会育ちで品の良さをみせ、近所では評判の美人で私の自慢の叔母だった。
長男春夫はよちよち歩きで近所の小母さん連中に愛嬌を振り撒き、可愛がられながら小さなプリンスとして近所を闊歩していた。次男二郎が誕生したが、自宅に産婆がきて出産、産湯を沸かすのに叔父が薪を割り、竈がなく、更に細かく薪を切り、七輪で沸かし大変だったことを忘れない。
当時はガス、水道がなく、当然、冷暖房もない。水は地下水を手押しポンプで汲み上げバケツに溜め、手柄杓で水を飲んでいた。
お互いが助けあわなければ生きていけない時代で、私も小牧家の一人として家事を手伝ったが、食料が無いことが悲惨だった。叔父と共に叔父の友人を頼り買い出しに、私も川内の両親のもとに食料を求めて屡々帰っていた。
私の部屋の前に桃の木がありその時期になると桃が実り、たいして美味しくなかったが、当時は桃を口にすることはなかった。
小雨の降る或る夕方、桃の木の下に誰か居る気配を感じ、そっと覗くと近所に住む先輩が木の下で桃を齧っている。空腹で我慢ができなかったのだろう。見てはいけないものを見たが、咎める気は無くガラス戸の隙間越しに眺めていた。
時々思い出すことがあるが、今では良い事をしてあげた気になっている。日本国中が空腹の時代だった。
当時は卵一個が貴重品で鶏一羽を手にいれると卵を産ませ、最後は食料として食べてしまうが、鶏の首に縄をかけてぶら下げて絞め殺し、毛をむしり、うぶ毛を焼いて丸裸にして料理していた。
凄惨な光景だったが、現代の人々には想像すら出来ないだろう。人間、戦争と同じで窮すればなんでもやってのけるということだ。
我が家の前の路地で、我が家の前に住んでおられた岩下さん兄弟とキャッチボールを、夏になると近所の子供達と連れだって、騎射場電停を横切り水産学部の下の海岸で泳いでいた。
当時の騎射場電停は石造りの立派な停留所で周辺は畑や雑木林があり、市営住宅のバラックが建ちならび共助会の映画館らしいものも出来ていた。
昭和25年、5年間の小牧家での居候生活が終わった。
この年、6月に朝鮮半島で戦争(朝鮮戦争)が始まり、日本は特需景気に沸いたが、私には生きる事に精一杯の5年間で、現代では体験し得ない空間であり、私の性格をも形作った一つの財産であった。
叔母には亡くなる日まで自分の息子のように接していただいた。叔母が亡くなり月日が経つにつれ小牧家との思い出も影が薄く断片的になってきたが、三世子叔母への感謝と小牧家との思い出は終生忘れることはない。
先日、昔を偲び我が家の住まいらしき周辺を散策してみた。
現在の知事公舎の西側にあたるが、高農(高等農林学校)の垣根に沿ったカラタチ、季節になるとホタルが舞っていた小川、周辺の畠、雑木林の面影は微塵もなく、最高の住宅地であった我が家と思われる周辺には小さなアパートが乱立し、世の移り変わりに打撃をうけながら、しばし呆然と立ち尽くしていた。
昭和22年、日本で初めて片山哲を総理大臣とする社会党を中心とする内閣が成立したが、わずか9ヵ月で総辞職。
この年の9月8日私は満15歳を迎えた。
中学3年のこの日を期して私の姓は遠矢から江川と改姓された。急に姓が変更になった事で、私自身も友達もしばらくの間、違和感を覚え同時に友人への説明に苦労をした。
父は遠矢家の子沢山の家庭に育ち長男では無かった。当時は長男が家督を継ぎ二男以下は養子にいき、女の子は嫁にと食い扶持を減らし家計を助けるのが世の常だったらしい。
父は母の若松家に養子にいき若松姓を名乗っていた。当時は士族、平民と区別される世で、父の弟は士族の姓である江川の姓を金銭で手にいれたという。因みに父は昭和5年熊本医科大学で受領した卒業証書を審査し、その後、医師免許証を取得しているが、姓名の横に鹿児島県士族の記載がある。当時は士族であることに大切な意味があったのだろう。
その後、江川を継いだ弟が死去し金銭的に取得した姓が取り残され、妹が江川姓を継いだが嫁にいき、残された江川姓を父が引き継いだようだ。法律が良く判らないが、小学生時代、兄は若松を私は遠矢を名乗り、両親は江川と不思議な家庭だった。
私が江川と改姓したことにより家族全員が江川に統一されたが、昭和11年呉服町51番地に開業した時は若松耳鼻咽喉科と名乗っていた。母方の祖父若松弥太郎が神戸市で内科を開業していたが、後継者がなく父が院名を継承したらしい。
昭和42年私が父の跡を継承した時、江川耳鼻咽喉科と改名し今日に至っている。
戦いが終わり授業は再開されたが、これまでの国家主義、軍国主義的教育は全て排除され、日本歴史、修身、地理の三課目は廃止となり、当然、戦前の教育の基本であった教育勅語も禁止された。私の小学生時代教育勅語を覚えさせられ、今でも全文を暗唱できるが、この時期より教育は公より個に変わり先生と生徒に対する関係が、上下関係から友達関係となり先生の権威は失しなわれたように思う。
新しい教科書は間に合わず、戦前の教科書を使用していたが、不適格な部分は墨で抹消し、一頁真っ黒になることもあった。
通学は下駄をはいて通学していたが、鼻緒が切れた下駄を途中で切れたように装い自宅を出るときから鼻緒はきれていた。
下駄も限度を超えて履いていると下駄の歯が擦り切れ草履みたいになってくる。下駄がなるべく擦り切れないように下駄の歯にタイヤの切れ端をうちつけて工夫しながら、高下駄を履いたものだ。桜島に何回か登ったことがあるが下駄で登山した。
休み時間は手製の布ボール、バットは角材を拾ってきて握りの部分だけ丸く削る。キャッチャーは布製の手造りのグローブをはめ野手は全員素手で野球らしい遊びをしていた。
昭和22年、戦後2年というこの時期、担任の久永武熊先生が勉学のため自宅を開放された。騎射場電停より荒田八幡よりの東側に自宅があったが、周囲は戦災の瓦礫でうまりバラックの住まいだった。
生徒数10人、現代でいう塾のはじまりだろうか。先生の風貌に因み誰が名づけたか「食どん塾」と呼んでいた。因みに「食どん」とは鹿児島の方言で食用蛙の事である。
縁側から上がると畳式の居間が教室で、勿論、冷暖房は無く冬は隙間風で寒く夏は暑い。先生も生徒も冬はオーバーを着たまま、夏になると上半身裸で学んでいたが、書物で読んだ寺子屋を思い出す。先生は我々に教える傍ら、襖越しの隣の部屋で家族の世話をしておられた。
電車で通う生徒は荒田八幡神社の境内で相撲をとるのが楽しみで時間に遅れ、勉強の始まる頃は体力を使い果たし居眠りする者もいた。先生の夢は明治維新に加治屋町から多くの偉人が輩出されたように、荒田の一角より世界に役立つ偉人を英才教育で育てようと夢は大きいものであったと思うが、親の心子知らずで先生の夢は消えたようだ。
財政的に困難だったのか、生徒に絶望されたのか塾は閉鎖された。あのまま存続していたら今頃大手予備校になっていたものと悔やまれる。
昭和23年、美空ひばりがデビューしたこの時期、なんとなく軟式テニス部に入部した。ラケットを振りまわし、コートを走り回り白球を追う姿を夢みていたが、テニスコートが無く私の入部と同時にコート作りの作業が始まった。現代であれば重機で堀り、またたくまに完成するだろうが、鍬とスコップで堅い土を掘り、ガス会社で排出されたコークスを運び、約一年後完成した。
途中から合併した女子部員も加わり、女子部員と話せる楽しさもあり、日曜日も返上して作業に励んだ。この一年間は勉強よりコート作りに専念したように思う。私個人としてテニスの戦歴は殆どないが、甲南高校の軟式テニス部には輝かしい戦歴があり、そのコート作りの一端を担ったことで満足している。
昭和24年イヅロ交差点より大門口に至る道路の拡張工事が始まったが、焼け跡に杭が打ち込まれただけで、道路として完成するのはまだまだ先の事だった。10月になると山形屋のエレベータが動き出したが、電力不足の為、4階までの直通運転で下りは階段を使用していたが、連日超満員だった。
高校3年間は世情も殺伐とした時代で、学問に打ち込んだという感覚はない。
戦後、小牧家に居候をしていた5年間、食糧難のため家庭菜園で懸命に野菜を作っていた。野菜作りに興味を覚え将来は果実園をつくり、製品化することを考えていた。父に話したところ一喝され誰が決めたわけでもないが、蛙の子は蛙で医師になることが決定づけられていたようだ。
昭和26年甲南高校を卒業した。高校時代勉強らしいこともせず、友人5〜6人と共に連れだって熊本大学を受験したが、旅行気分で駅前の不知火旅館に宿泊、夜は全員でストリップショウを見学?ヘンリー松原が出演していた。
当然、受験は見事失敗。当時は医学部に入学するには、先ず、いずれかの学部の一般教養部に入学し、所定の単位を履修後、再び、医学部を受験する制度だった。
浪人生活の一年間、何がなんでも医師に仕立てるという父の意気込みは物凄く、多くの浪人生は東京の駿.br河代、代々木の予備校に上京したが、東京の予備校に行くことを拒否され、子供の意見を聞くこともなく父が勝手に決めた教師の自宅に教えを乞いに行かされた。
当時は鹿児島に予備校、塾等、無い時代で個人の教師宅に行ったが、バラックで襖越しに家族の気配を感じ落ち着いて勉強する雰囲気ではなかった。谷山電停から徒歩で約30分田辺航空の跡地に建った市営住宅で夜7時から9時まで教わり、周辺は畠で街灯もない暗い夜道を、とぼとぼと寒さを凌ぎながら帰ったことを思い出す。
昼間は世間の雑音が煩いと病室の一室をあてがわれ、親父の監視のもと、毎晩徹夜で勉強をさせられた。昼2時頃が私の起床時間で翌朝8時迄が勉強時間である。
早朝、近所の「ミツワ湯」の銭湯に、時に昼飯に近所の「のぼる屋」でラーメンを食べることだけが許された。
監視の下、強制的に勉強を強いられていたが、困った事は課目の内容にまで干渉することだった。戦前と戦後では当然教科書の内容も異なる。数学も父の時代は代数、幾何と呼ばれていた。
強いられて勉強が出来るものではないが、何故か不思議と反抗することはなく、この反省で私は息子の受験に殆ど口を出すことはなかった。
昭和27年4月長田町周辺で大火があり、鹿児島県立大学付属病院は類焼し昭和30年に再建された。
昭和27年、一般教養部に入学し2年間で単位を取得し再度医学部を受験することになる。単位は取得したが、友人に誘われたビリヤードに熱中し、学校に行かずビリヤードで昼飯を食っていた。
ビリヤードは見た目は簡単のように見えるがゴルフ等より技術的に遙かに難しく奥深さもある。
現代ではビリヤードといえばナインボール、ローテーション、エイトボールが主流と聞くが、 当時は一般にビリヤードといえば「四ツ球」で、映画「ハスラー」の流行により消滅したそうだ。四ツ球は白2個赤2個の4個のボールを使用し、予め定められた手球を撞き他の二つの球、又は三つの球にあたると其々得点になり加算する。赤、白それぞれで点数は異なるが得点出来ない時は相手と交代し自分の持ち点に早く達した者が勝ちという比較的簡単なルールだった。大体4〜5回撞いて得られる得点を自分の持ち点としたが、私は150点(3本、1本が50点)で、自分専用の持ちキューが壁に下がっていた。各自の持ち点でゴルフ同様ハンディが付くわけだ。
昭和20年代後半、ビリヤード場は中町、亀甲屋(現、DOUTOR)の裏、今は駐車場になっているが、雨漏りがする粗末な建物だった。 ビリヤードといえば不良の溜まり場の印象を世間はもっていたが、田中さん(田中金物店)片川さん(片川寶榮堂)大山さん(大山木材)等の御主人連中が水筒に焼酎を持ってこられ和気あいあいの羨ましい雰囲気だった。足、腰に痛みを覚える高齢者となった今日、ビリヤードは適当な運動と頭の体操をもたらす最適の競技と思うが、残念ながら昔のビリヤードの面影は何処にも見当たらない。
この同じ頃パチンコが盛んになってきた。 戦前、我が家にコリントゲームとよばれる玩具があり、斜めに置かれた盤に釘が打ち込まれており、スティックで球を転がし得点する玩具があった。 そのコリントゲームを立て懸け、ばね式で球を打ち上げるのがパチンコのような気がする。当時は親指でバネを弾き、穴にはいると3〜4個の球が出てきていた。交換景品はチョコレート、タバコ、缶詰等日用品が主であった気がするがパチンコに興味はなく今でもパチンコに興じたことはない。
市役所の裏、名山小学校の角に交番があり、秋の夕暮れ友達と自転車に二人乗りで交番の前を横切った。 「コラッ」、巡査に一喝され交番に呼び込まれ二人乗りを注意された。「コラッ」とは何事か、戦前の威圧的な特高(特別高等警察)を連想した私は戦後の民主警察ならもっと優しく呼べと反論。言うことを聞かんと送検するぞと言われ、引くに引かれず喧嘩別れとなった。
数日後、検察庁より公務執行妨害の出頭命令が来た。
単に言い争っただけなのに公務執行妨害になるのかと不審に思っていたが、当時は日米安保条約が結ばれメーデーが頻発し、都会ではデモ隊と警官隊が衝突し学生が警官隊に火炎瓶を投げるという騒然とした時代だったので警官も学生に反感を抱いていたのだろう。
出頭命令に親父が驚き、何をいわれても反抗するなと諭され出頭した。検事に西郷隆盛の話をされながら諭されていたとき、弁護士が現れ取り下げられた。心配した親父が弁護士を依頼したらしい。たかが自転車二人乗りで検察庁に書類送検されることもないが、弁護士を依頼する程の大事件かと今でも納得がいかない。
ビリヤードの所為だけではないが、当時医学部は10〜20倍の競争率で又も失敗。親父の監視下に再度受験勉強が始まったが、ビリヤードが止められず、親父に気づかれぬよう、抜き足、差し足、忍び足と玄関を音をたてないように抜けだしていた。玄関に開くと鈴がなるよう親父が細工をしたが、鈴を手で押さえ抜けだしていた。或る夜、忍者の如く抜けだして音を立てないよう帰宅すると玄関の正面に座布団を敷いて親父が座っており、何時から座って待っていたのか知らないが親父の執念を思い知らされた。医学部に入学したら一切口出ししない、お前の勝手にしろ、合格するまでは喧しく干渉すると頑固な親父は言っていた。
すでに大学に入学した友達が時々遊びに誘ってきたが、父に呼び出され遊びにくるなと怒られたそうだ。今の世で子供の友達を呼び出し遊びにくるなと説教する親を聞いたことがないが、これは数年後、彼等が話してくれたことで、当時、私はこのことを知らなかった。
鹿児島大学と神戸大学を受験。汽車に乗り十数時間かけて神戸で下車。三宮の紹介されたホテルらしきものを訪れたが、戦後、10年のことゆえ窓のない暗い感じのホテルで、そのままキャンセルし楠木神社横の旅館に宿泊。当夜から風邪をひき発熱、受験はしたが不合格である事は判っていた。受験の途中、わが家から鹿大医学部に合格の電話が旅館にきた。当時は各部屋に電話はなく、帳場で電話を受けたが、嬉しさのあまり鹿児島弁でまくしたてた私に旅館の人々が驚いていたようだ。発熱のため二等車で帰鹿。二等車は現代のグリーン車だろうが車体の横に青線が、三等車(普通車)は赤線が車体の横に塗ってあり、学生の身分で二等車に乗ることは病身のため許された事だった。
振り返ると子供の意見等全く聞かない、何がなんでも医師にするという頑固一徹な父親であつたが、当時、父親は偉いものという絶対服従の気風があり、後年、息子が金属バットで気に喰わぬ父親を殴り殺した事件があったが、戦前から此の頃までは家族の長である父親は偉い者、逆らえない者であり、夕食の食卓では常に父親が真ん中に座り、父が座らないと食べさせて貰えないという時代に育ってきた。
昨今、親が、先生が子供に甘くなったといわれるが、親と子供、先生と子供が対等となり友達関係では教育はできないと思う。昨年、孫の祖父母参観に出席した。60年振りの複式教育に懐かしさを覚えたが、驚いたことは教壇がないこと、そして先生の生徒への口調に驚いた。先生と生徒は対等ということだろう。少子化に伴い子供の地位が向上し子供中心主義となり「ゆとり教育」といわれるものが生まれた。「ゆとり」のなかで教育が進むのは極一部であり、多くは叱咤激励し厭々ながら学ぶ子が大部分だろう。子供は学問に熱中することなど好きでないのが普通でその方がむしろ健全な子供といえるだろう。私もその例に洩れず当時は反感も抱いたが、父の叱咤がなければ医学部に合格出来なかったと感謝している。
「貧乏人は麦を食え」といわれた昭和20年代が過ぎ、昭和30年、戦後10年経たこの頃、最早、戦後ではないといわれた。第二次鳩山内閣が発足し家電が普及しはじめ神武景気の始まるこの年に国立鹿児島大学医学部一期生として入学した。因みに前年度までは県立鹿児島大学医学部である。
同級生として43人が入学したが半世紀を経た今日、一人去り、二人去り現在では(平成24年)25人になっている。
当時、医学部は現在の鹿児島大学教育学部付属中学校付近にあり、今では大きな道路に電車が走り、交通量も多いが、当時、電車は唐湊までで、市営バスが砂利道を砂煙をたてながら走っていた。
木造平屋の校舎で基礎医学の二年間を過ごし、臨床教育の二年間は鶴丸城横の付属病院内(現、医療センター)の教室でおこなわれていた。丸屋デパート前からバスで通学していたが、校舎周辺に民家は無く、休み時間は寒々とした草原で草野球やバレーボールに興じ、各教室に勤務していた女性達と卓球をするのが楽しみだった。時折、西鹿児島駅(現、鹿児島中央駅)前の雀荘で麻雀をした記憶があるが今はダイエーが建ち面影もない。
基礎医学では、憧れの白衣を纏いながら双眼顕微鏡を覗き組織標本を模写したり、蛙の筋肉の生理学等、振り返ると臨床に重要な基礎医学であったが、当時はそれ程、重要性を感じていなかった。
思いだすのは、人体解剖実習である。プールに浮いた死体を引揚げ、6人で一体をあてがわれ、其々の部分をピンセットで刻み、教科書と見比べながら、筋肉、神経、血管を実習していた。はじめは独特の異臭、不気味さに惑わされていたが、慣れとはおそろしいもので、死体の傍で食事をする学生もいた。神経、筋肉、血管の名称を覚えさせられたが、今では殆んど記憶にない。
医学部入学最初のコンパは旧七高グランド横の敬天閣でおこなわれ、自分達で焼酎の燗をつけたが、鶴丸高校より首席で入学したといわれたY君に燗の付け方を尋ねられた。銚子の底に指を当てたらと教えたが、何を勘違いしたのか、燗びんの入っている薬缶の底に指を当て熱いと怒られたことがある。 内心、秀才とはこんなものかと少し安心した。
鹿児島県には多くの離島、沢山の無医村地区が存在する。私の入学当時も日頃恵まれない無医村地区において巡回診療、同時に風土病(フィラリア)の調査がおこなわれ、医学部学生も参加していた。
医学部学生は主に4年生が参加したが、私は3年生で参加した。昭和32年5月1週間に亘り瀬戸内町(諸鈍、阿室釜、篠川)を巡回したが、当時は航空便がなく、船便で名瀬に寄港、瀬戸内に着いたのは一昼夜後である。更に小型船に乗り換えて移動、現地に着いたときは体力を消耗していた。勿論、民宿で診療現場は役場の一室を診療所とした。持ち運ぶ物資に限度があり、診療とはいえ、診断の上、投薬するだけだったが、無医村であり、無料のため診療の必要が無い村民も大勢おしかけ混雑をきわめた。同時に村民が如何に医療に渇望しているかを思いしらされた。
ほのぼのとした民宿だったが翌朝、近所の男の子が大きな蛇をぶら下げて現れ奄美大島のハブは聞かされてはいたが目の前に見せられ脅威を思いしらされた。
小学校時代の級長稲村貞人君より便が送られてきた。昭和20年卒鹿児島男子師範付属小学校複式の最後と思われる同窓会を鹿児島で催したいという趣旨である。
3年前東京で催した時、6名の出席だったが、果たして今回何名が出席出来るのか不安にかられたが、67年前の級長は67年経た今でも級長であり彼の希望を叶えてあげたい。卒業時22名の同級生は今では11名となり、結局、足腰の痛み、持病のため県外からの出席者は級長1人となり、平成24年9月28日県内在住の3人を加え、僅かに4人8つの瞳という小さなクラス会となった。
恩師蒲牟田実先生父子の参加を得て僅かに2時間余りのクラス会だったが、想いは70年と昔、昔に遡り、幼年時代の面影を鮮やかに想い出した楽しい晩年の一時だった。
昭和32年医学部3年生になり、振り返ると基礎医学の2年間に比し臨床医学の2年間は真面目に学んだと思う。臨床医学の2年間は大学病院(現、国立医療センター)内の教室に移動した。
医学部に入学した昭和30年は第2次鳩山内閣が発足し、東京で基地反対闘争が始まり警官隊と学生や民衆が激突し約1年間左翼運動の象徴的な闘争となったが、昭和32年になると病気のため僅かに2ヵ月で退陣した石橋湛山内閣に変わり岸信介内閣が誕生。コカコーラが日本で初めて販売され、石原裕次郎、力道山で湧いた時代である。
何処の医学部でも学生が近寄りがたい教授、教室があるらしいが、我々一期生には第一内科、整形外科、耳鼻咽喉科の三科が学生に厳しく、近寄り難い科であり教授だった。第一内科M教授の臨床講義は素晴らしい講議だったが、講義中突然指名され誤った返答をすると「よく医学部にはいれましたね、今からでも馬車曳きになったら」と罵倒された。今時、このような教授は存在しないし若し存在したら学生に猛反発をうけるだろう。耳鼻咽喉科のK教授は全て自分の教えを答なければ機嫌が悪い。他の教科書でいかに勉強したことを述べても教授自身が教えた語句、表現をしないと機嫌が悪い。当然K教授の講義は学生が熱心に筆記したものだ。
三年の夏休み国立霧島病院に泊まり込みで実習に10日間をすごした。現代では想像できないが、学生の身分で診療、手術に参加していた。勿論、医師が付いていたが、今の世では学生が直接、診療、手術に参加する事は出来ないだろうし、振り返ると現代の高度な技術の手術とは少し異なるように思う。
長嶋茂雄が巨人軍に入団、街では石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」フランク永井の「有楽町で逢いましょう」が流れる昭和32年が終わり昭和33年になると、皇太子と美智子妃の婚約が発表され世のなかはミッチーブームに沸いた。
この年、昭和33年7月、10日間に亘り瀬戸内町(久慈、薩川,押角、請阿室)の4か所の奄美大島風土病調査研究並びに巡回診療に参加した。私には2 度目の巡回診療だったが、昨年同様、船便で巡回がおこなわれた。遙か洋上で大型船より小型船に移乗、波が大荒れのため、大型船と小型船が同じ高さにきた時、船員が体を捕まえて移乗するという今では危険で見られない光景だった。大波のため船は大きく傾き、甲板に転んでいた瓶が左に右にと転がっていたのを思いだす。
フィラリアの採血は夜中に行われ、設営された診療所に行くのにハブを恐れ、役場の人が先導してくれていた。瀬戸内町では古仁屋が中心で、古仁屋から遠い地域では医療は言うまでもないが飲料水までも不自由をしているようだった。目的は巡回診療であり風土病(フィラリア)の調査のためであったが、私には初めての島めぐりで島民の歓待をうけながら、島の絶景、特に海辺から洋上に沈む夕日が心に残っている。この旅先の想いが、高齢者になった今日、一人旅に興じている原点でもある。
学部対抗の野球があり、我々一期生も野球チームを結成した。猛練習をした記憶はなく水産学部と対戦惜敗した。当時は勿論友人同士であったが、振り返ると錚々たるメンバーである。
投手 大井好忠 (泌尿器科教授)
捕手 米盛学 (鹿児島県医師会長)
二塁手 今村農夫男 (川内市医師会長)
三塁手 平 明 (第二外科教授)
遊撃手 美坂幸治 (教育学部教授)
監督役に田中弘充君(鹿児島大学学長)がいたが、彼は学問にまっしぐらで野球は苦手のようだった。因みに私は一塁手を務めた。
運動会の仮装行列のため野村文化服装学院がある山形屋を訪ね参加を願いに行ったことがある。出し物はスペインの闘牛だったが私は牛の被り物を被り牛の後ろ脚が私の役だった。この出会いを機に何組か伴侶を得たと聞いたが、今風に言えば出会い系の合コンの感じである。
医学部の軟式テニス部に属したが一期生で、先輩は居なく、現在の黎明館横の駐車場あたりに白線を引きバックネットのない急造のコートでラケットを持ち寄り練習をしたが、部というより同好会である。西日本医学部体育大会や学部対抗にも出場したことがあるが当然成績は芳しくない。
私は前衛、後衛は大井好忠君だったが彼は高校時代より名選手で彼の邪魔をしたように思う。岡山で開かれた大会後、美坂幸治君と二人で四国に渡り、高松、徳島、淡路島を経て和歌山に渡り橋本市に開業する叔父平林陸男宅に泊めていただいた。長男国男君に高野山に案内しもらい京都を見学後帰鹿したが、その間の計画すべて美坂君が仕切ってくれ私は彼の指示に唯従うのみだったが汽車と船の安上がりで楽しい旅だった思い出がある。