10月18日、東京で開かれたクラス会に出席した。終戦の年22名の卒業生は12名となり6名が出席した。
僅かに6名だが懐かしく思い出も多い。お互い年老いた姿のなかに小学生時代の姿を彷彿させる。静かに席を立ち片隅でインシュリンを打つ新山勉君、嘗てはクラス一の腕白であった彼が注射を打ちながらも出席してくれた事に感動し嬉しかった。
この世で最後のクラス会と思っていたが最後ではないそうだ。お互い若し元気でいたらと再会を約束した。若しでなく全員元気な事を祈るのみ。
昭和20年3月硫黄島が玉砕し、4月に米軍は沖縄本島に上陸した。
その4月に6年間の男子師範付属小学校の卒業式をむかえた。卒業記念写真は今ではセピア色に染まっているが、先生方は国民服にゲートルを巻いた懐かしい写真である。
1年生の時は川村純二先生、戦後は鹿児島市立美術館長、郷土史家として活躍された。
先生の晩年、体調を崩され治療に来られたが、教え子ではなく医師としてお付き合いをいただいた。僅かに1年間の担任だったが真の教育者だった思いが忘れられない。
2年生の時は有村政治先生。耳鼻科医として川上小に身体検査に赴いた時、先生が校長をされており私に鄭重な挨拶をされたが、昔を振り返りながら教え子と判ると師弟の言葉使いになられたことを思い出す。
その後、名山小の校長になられ子供達がお世話になった。
3・4年生は黒川肇先生。国語を担当され、これからは綺麗な標準語を使おうと「国語の純化」の名のもと、クラス全員で「君、鉛筆を貸してくれたまえ」と唱えていたがあまり効果はなかったように思う。
5・6年は蒲牟田実先生。この頃は良く歩いたものだ。
少年団で城山を駆け巡ったり、寺山公園に遠足で行ったことがあるが、グループに分かれ手旗信号で各グループとの連絡を取り合い遠足も軍事色だった。当然、卒業時における恒例の霧島登山は時節柄中止となった。
早朝に登校し道場で示現流(薬丸流)を教えられたが、単なる稽古ではなく迫真にせまるものがあった。真冬の霜柱がたつなか裸足で稽古に励み霜焼けに悩まされたが、薩摩の武士道の一端を教えられた気がした。
年老いた今日、ゴルフに負けると無性に悔しいのもこの時の教えだろうか。
先生方は教材を全てガリ版で書き謄写版で刷って作っておられたが、付属の先生方は訓導と呼ばれ、他の小学校の先生方の羨望の的であると聞いていた。
国民学校の履修科目は修身、国語、算術、理科、国史、地理、習字、音楽、図画、工作、体操で、修身は当時最も重視された教科で現代の道徳と思うが、修身教育の理念は教育勅語であり今でも教育勅語の全文を暗唱できる。
爆弾3銃士(上海攻略に参加)木口工兵(死んでもラッパを口から離しませんでした)、楠木正成、二宮尊徳、高山彦九郎、曽我兄弟、西郷隆盛等が教材となり、御国のために血を流せ、同時に親を敬い大切にすることを教えられた。
国史は日本史で天照大神に始まる神話が、地理は戦時中のため京浜工業地帯、阪神工業地帯、北九州工業地帯が頭に残る。習字は硯で墨をすり半紙が無く新聞紙に練習をしていた。
戦局が激しくなるにつれ音楽の時間は歌う事より敵機の爆音を聞きながらグラマン、ボーイング、ロッキード等、敵の機種を識別する音感教育、即ち爆音を聴音器で判別する教育が重視され、今でも音感はあるが歌唱力はない。
工作の時間は「肥後の守」や「切り出しナイフ」を使い模型飛行機、水鉄砲等作ったが、現代では刃渡り6cmを超える刃物の携帯は銃刀法違反となり又購入に際し身分証明が必要だそうだ。
体操の時間は夏になると水泳があった。与次郎ヶ浜、小松原海岸に先生が引率して海水浴に行っていたが生徒は全員兵子帯を締め丸い帽子を被り泳いだ。
次第に人手不足を補うため武岡や紫原の農場で"唐芋"を植えたり、田植え、田の草取りが体操の時間に行なわれた。
輸送力を補うため日置郡郡山小に集められた野菜を生徒全員で背に被い草牟田小まで歩いて運んだことがある。総量にするとたいした量ではなかったと思うが、それ程緊迫した世の中であった。
5年、6年生になると妙円寺参りが毎年行なわれた。関ヶ原の戦いに敗れた島津義弘が敵中を突破して鹿児島に帰った苦難を偲び、夕方学校を出発往復40キロの道程を一晩中歩き明朝学校に帰っていた。
学校では常に裸足で教室に入る時は、足洗い場という長方形の水溜まりで足を濯ぎ、入り口のマットで足を拭き教室に入っていた。冬は表面が薄く凍り全生徒が"霜焼け、あかぎれ"に悩まされ"霜焼け"の指を糸で縛り、縫い針を刺し、血を出して痒みを止めたり"あんま膏薬"を貼っていた。
街では綿飴を売りながら自転車の後ろに取り付けた紙芝居が流行し、小倉百人一首は愛国百人一首と改められた。将棋も軍人将棋(私達は行軍将棋と言っていた)に改められ、駒に「大将」「中佐」「工兵」「地雷」「戦車」等があり戦争を想定し役割を駒に託した遊びで現代では見られないだろう。
当時は日本国民全てが戦争目的の完遂に邁進していた特別な時代である。
男子付属小を卒業した6年間にいろいろな事を思いだす。
現代の小学校のように「いじめ」もあり、何処の小学校、どこのクラスにも餓鬼大将がいた。当然、我々のクラスにもボスがいたが陰湿なものではなかった。
校庭に土俵があり放課後よく相撲をとっていた。野球、サッカー等は敵性スポーツとして白い眼でみられたが、相撲はラジオで実況放送を聞きながら新聞に載る取り組み表の勝った力士に丸を付けていた。
当時双葉山、羽黒山、安芸の海、男女の川、の全盛時代で一人一人四股名をつけ、当然体格の良いボスが双葉山であり安芸の海である。因みに体の小さい私の四股名は豊島だった。
我々体格の小さい者はボスの餌食となり常に投げ飛ばされていたが5年生の時だったと思う。投げ飛ばされ胸を打ち肋膜炎をおこし学校を約1カ月休んだことがある。
男子付属には男子師範より教生先生が実習に来るが、たまたま女子師範より二人の女子の教生先生が来ておられた。
運悪く担任が留守の間の出来事で、責任を感じられ何回も見舞いに謝りにこられたのを憶えている。
そのお一人が二科展会員で有名になられた洋画家の松田陽子先生で、私が耳鼻科医になり鹿屋の中学校に検診に行った時、偶然お会いした。先生も覚えておられ、その後山形屋で個展があり、先生のフランスでの作品を求め今でも大事に飾っている。
付属小の前にクリーニング屋さんがあった。
道路に面しアイロン掛けされた真白い洗濯物の上に道路にあった馬糞を置き、皆で逃げたことがある。近い将来、お国の為に命を投げ出すであろう子供達という思いが当時の大人にはあったのだろう。小学生の悪戯に比較的寛大であったと思う。
一人では出来ないことを数人集まると何でもする。子供の時の習性は大人になると顕著にあらわれ、団体旅行、宴会等でみられるが、何故か私は一人旅が好きであり孤独を好む。後期高齢者となった今、一人で遊び一人で楽しむのはこの時代からの逃避だろうか。
下校時は夫々の方向に4〜5人に分かれて帰宅するがこの中にもボスがいる。
途中に文房具屋がありボスには逆らえず、皆で消しゴムや三角定規を失敬した。言い換えると万引きである。
文房具屋の主人より学校に連絡があり、主事先生(校長)と担任に興亜室(戦死された英霊の写真が飾ってある部屋)に連れていかれた。主事先生と担任が我々一人一人の胸倉を掴み、涙を流しながら諭され生徒も涙を流し反省したが叩くことはされなかった。
当時は軍国主義の真っ最中で瘤の2〜3個出来るぐらいは殴られた時代である。あの時の温情ある説諭が忘れられないが、主事先生とは宮本七郎先生であり、担任は蒲牟田実先生である。
卒業後、クラス会の度に必ずこの事が話題になる。私だけでなく皆が心に秘めているらしい。
戦争中で中学校では相当殴られた。小学校でも叩かれるのが当然と思われた時代である。当時は教師に父兄も生徒も絶対の信頼を寄せていた。子供が叩かれても子供に非があるとして学校に父兄が押しかけることはなく、教師を「せんこう」と呼ぶことなど考えられない時代である。
今の世であればPTAマスコミ、教育委員会が社会問題として大騒ぎと思うが、学校の責任として父母に知らせることなく処理をされた。勿論、良い事ではないが皆と同様に私にも心に残る、忘れられない思い出である。
昭和20年3月硫黄島が玉砕し4月に米軍は沖縄本島に上陸したこの頃、忘れられないのが神風特別攻撃隊である。
特別攻撃隊はその後、名を変え幾度となく出撃し大本営発表を信じ多大の戦果をおさめていたと信じていた。開戦当初の特殊潜航艇による真珠湾攻撃やシドニー湾攻撃も特別攻撃隊であった。
文献によると特別攻撃隊は生還の可能性の無い攻撃で体当たり攻撃の代名詞(特攻)となり、零戦(零式艦上戦闘機)という本来空中戦専用の戦闘機に搭載能力を遥かに超えた爆弾を積み敵艦に体当たりするという無謀な戦術であり、戦闘能力を極端に落とすことにより米軍の対空砲火で若い命を無駄に散らしたようである。
この特別攻撃隊の攻撃をうけた米軍首脳は日本人の祖国のために命を惜しまない精神に驚愕し、日本人を一人残らず抹殺すると決断したという。
戦争末期になると、本土防衛最前線となる鹿児島では、志布志湾や市来の吹上浜に米軍が上陸するのではと噂が流れた。同時に多くの特攻基地が設けられ知覧、鹿屋が話題になった。
戦後、知覧基地が有名となったが、最後は支援戦闘機も満足な飛行機も無く、練習機が片道燃料で沖縄近海に向け飛び立ち、最年少の操縦士は17歳であったそうである。
知覧を数回訪れた事があるが観光化しているのが気にいらない。特別攻撃平和会館が設立され出撃前の特攻隊員の遺書が展示されているが、すべてが達筆で心をうつ文面である。日本国中の全ての人に是非一度は訪れて欲しいと願っている。
最近は中近東で自爆テロが盛んにおこなわれている。日本軍の特別攻撃隊と同視する論評を見るが私は違うと思う。
様々な評論をみるが、一部ではあるが戦争を体験した者として、祖国のために身を投げだした特功隊員と自爆テロは違うと思いたい。
現在、日本の軍事費の約半分は人件費という。
当時、葉書一枚で召集された兵士達が祖国日本のため、天皇陛下の為に身を捧げ戦闘に従事した。今の自衛隊は高給を貰い、更に危険手当が支給されるといわているが、今の自衛隊員で祖国日本の為に命を捧げようと思う隊員が何人いるだろうか。
昭和20年4月鹿児島県立第二中学校(通称二中)に入学した。元来二中は帽子の後ろに白線一本、黒の風呂敷(一中は白)に学用品を包んで登校するのがシンボルだったが、私が入学した頃はそれ程の余裕もなく次第に携行品は山鍬やスコップになっていった。
二中は軍神横山正治少佐の母校として全国でも有名な軍人一色の中学校である。
横山少佐は真珠湾攻撃の特殊潜航艇の乗組員として参加し軍神といわれ、我々二中生は横山少佐の生家の前を通る時は最敬礼をしていた。
「断じて行へば鬼神も之を避く」
横山少佐が呉軍港出航に際し壮行会での寄せ書きに記した言葉で、小学校時代幾度となく教えられた言葉である。
特殊潜航艇は全長24メートル、直径2メートル、魚雷2門、搭乗員2名で、無事帰還することは念頭に無い潜航艇で23才の生涯を終えられた。
昭和17年、朝日新聞に横山少佐をモデルにして岩田豊雄(獅子文六)が「海軍」を発表し、映画化された。鹿児島市で、特に天保山、二中でロケがおこなわれたことを思い出す。
二中に入学したが戦況は末期的な様相を呈し、本土決戦を身近に感じ鹿児島も度々空襲を受けた。沖縄の戦況は熾烈を極めていたらしいが我々は左程知らなかった。報道規制によるものだろうか。
当時の二中は現在の甲南高校で、現在は校門が鹿児島中央駅に向かう大通りに面している。当時は現在の電停交通局前より二中通りを二中の横まで直進し、学校の壁に沿って校門に入る細道の周辺には民家が散在していた。よく言われる「荒田の田んぼ」の一角に存在した。
当時、二中には軍人組といわれるクラスがあったが、戦時的な気運がたかまるに従い軍人志望者が多くなり、一組に集めて昭和8年に作られたようだ。その成果が現れ陸海軍諸学校の入学者数は常に全国上位を占め、鹿児島二中の名は全国に広がったようである。
私が入学した頃は校風の「剛、明、直」のもとに学ぶことより配属将校による軍事教練の毎日だった。当時は退役の軍人が配属され整列の姿勢が悪い、ゲートルの巻き方が悪く、結び目が三角になっていないと、竹の根棒で殴られ生徒の頭は瘤だらけである。現代の若者はゲートルを巻いた経験は無いと思うが見た目より難しいものだ。巻き方が悪いと歩いているうちに足首にずり落ちてくる。今風にいえばルーズソックスだろうか。
授業中に空襲警報が発令されると直ちに下校し、解除になると授業が再開されることもあったが、とても落ち着いて勉強はできなかった。
或る日、休み時間に騒いでいると、突然配属将校が現れクラス全員が入り口の扉に叩きつけられた。
同時に叩きつけられ顔を見合わせたのが勝目和夫君である。その後、彼が亡くなるまで彼の友人の一人として付き合っていただいたが、彼との最初の出会いはお互い頭に瘤ができたことである。
当時は教師が生徒を殴ることは当然の事で、生徒も父兄も教師に反発する者は居なかった。
我々は4月に入学し終戦の8月まで4ヶ月間、二中生としての教育を受けた。
我々1年生は通学していたが上級生は陸軍幼年学校、陸軍士官学校、海軍兵学校、更に予科練と入校し、戦争への総動員体制に伴い在校生の大部分は軍需工場に学徒動員された。
昭和19年頃は笠之原航空隊や知覧飛行場で航空機の掩体壕設営に、昭和20年になると愛知県に航空機の組み立て作業を又佐世保海軍工廠に勤労動員された。一般学童は親戚、知人を頼り田舎へ疎開をしていたので、学校の機能は果たしていなかった。
我々1年生は人手不足の農村で農作業の加勢をするよう勤労動員が指示され、私は薩摩郡東郷村の八幡小学校で数日間農作業を手伝ったことがある。軍神横山少佐の母校二中から来たと紹介され得意気だったが、全く農作業が出来ず軽蔑の眼差しに耐えられなかった。
昭和20年正月、鹿児島市上空にB29一機が偵察に飛来したが唯見守るだけだった。
3月より終戦までの5ヶ月間で鹿児島市は8回の空襲を受けたが、鹿児島市は九州全域への攻撃の通過地点にあたり米軍機は悠々と鹿児島市の上空を飛んでいた。紫原、武岡の高射砲陣地より攻撃したが、弾が届かず制空権を完全に奪はれ空襲を受ける間、友軍機が敵機に攻撃する姿を見ることは無く思うままに攻撃されていた。
残念ながら、上空を今から攻撃に行くのであろう銀色の敵機が夕日に映え美しくも見えた。
3月18日、敵機グラマンが鴨池の海軍航空隊を攻撃した。この時、私は高等農林学校(現、農学部)前に疎開しており航空隊方面の黒煙、爆撃音を眺めていた。
4月8日日曜日、空襲警報もなく快晴だったと記憶しているが、午前10時頃、田上町付近に突然爆弾が投下され、次に我々が住んでいた騎射場付近にも投下された。
我が家の裏の畑にも爆弾が投下され、幸い死人は出なかったが爆風により周囲の家屋が倒壊、近所の娘さんが負傷し戦争の悲惨さが身近に迫ってきた。騎射場電停の西側、当時は畠だったが(現、騎射場公園付近)爆撃跡を見て次第に戦争の恐怖感が湧いてきた。
本格的な空襲にみまわれた鹿児島市は、6月17日、一夜にして市の8割が壊滅的に破壊され炎上した。
当夜、母と二人で疎開していたが、梅雨の時期のため防空壕は水浸しで、防空頭巾を被り手で目と耳を押さえ、しゃがんでいると焼夷弾の落下する音が不気味に聞こえる。医師は自院を離れることを禁じられていた父が、早朝になり呉服町から命からがら逃げてきた。
木造家屋の多い鹿児島市の8割は焼夷弾により一夜で全焼し、多くの市民が亡くなり被災したが当然非戦闘員である。
記録によると当夜の空襲は6月7日午後11時5分、B29延べ470機、約1時間に焼夷弾810トン、死者2316人、負傷者3500人、被災家屋11649とある。疎開先の我が家は西側に高農(現、農学部)の広大な農地に接し、東側は比較的大きな道路に接していたので、約200先で延焼をまぬがれた。
隣組総動員でこの日のために練習したバケツリレーの消火訓練、この日を想定し日々努力したことは全く役にたたず、雨のように落ちてくる焼夷弾、燃え盛る炎に唯身を守り逃げ惑うだけだった。
翌朝、父と我が家の焼け跡を見に行ったが、見渡す限り瓦礫の街と化し、路上に焼け焦がれた死体が累々と散乱し、異臭が漂い目を覆う惨状だった。焼け野原のなかに、僅かに一高女(現、中央高校)、二中(現、甲南高校)、高島屋(現、タカプラ)山形屋の残骸が残り、我が家の焼け跡はこの辺りと思うだけで周囲と区別ができなかった。
帰宅途中、二中に立ち寄ったが雨天体操場、武道場は焼失し、鉄筋の校舎は無事だったが、入り口の下駄箱の部屋には数多くの黒焦げの遺体が無造作に横たわっていた。これらは中学一年生の私の忘れることのない画像であり記憶である。
この年になり湾岸戦争、イラク戦争の映像を見るが兵器の破壊力はさておき、軍事基地を攻撃するピンポイント攻撃に比し、当時の戦いは非戦闘員を含む子供、女子にいたるすべての日本民族を地球上から抹殺する戦いであったと思う。
戦後、東京裁判で日本軍がおこなった虐殺の問題で多くの人が処刑されたが、我々が受けた攻撃も虐殺と変わらない気がする。戦争が起これば善悪の争いではなく、強者が弱者を征服する「勝てば官軍、負ければ賊軍」と言うことだろうか。
6月に戦災に遭い、行き場を失った私達は父方の親戚にあたる薩摩郡下東郷村(現、薩摩川内市)の鍋倉正義家を訪ね疎開をした。正義氏が男子師範学校に我が家の2階から通学されていたことがあり兄と共に盛ちゃん、俊ちゃんと可愛がってもらい、我々兄弟も「2階の先生」の愛称で馴染んでいたことがある。
離れを借り食べ物も与えて貰い、あの殺伐とした時代に助けていただいたことに感謝している。
7月に鹿児島駅、上町周辺の空襲があった。所要で偶然その周辺にいた両親は滑川辺りの防空壕に飛び込んだそうだ。
父の話によると、入り口が一箇所の小さな防空壕で後から後から人が飛び込んできたらしい。当然、奥に奥にと押し込められたそうだ。運悪く近くに爆弾が落ち、母は気を失い、周辺の人々も屈みこんだまま動かなかったという。
父は気を失った母を抱え、動かなくなった人々を乗り越えて抜け出し岩崎谷方面に逃げ、翌日その防空壕に行ってみると、昨日の人々がそのままの格好で全員亡くなられていたそうだ。爆撃で防空壕は半壊し、衝撃によるショック死ではなかろうか。
唯一人、気を失わなかった父が母を助け、母は98歳まで長生きしたが、父が気を失っていたら二人の命はなかっただろう。
疎開先では空襲とは全く無縁の山村で約3カ月間、戦況を気にしながらも、前を流れる川内川の支流で魚を釣り、網で小海老を掬い長閑な毎日を過ごしていた。
昭和20年8月15日戦争が終わった。
終戦ではなく敗戦である。大政翼賛会の標語「突け、米英の心臓を」「敵の本土は焼け野原」が虚しく聞こえた。
15日に天皇陛下の玉音放送があるという噂があり、裏山の他人の家に聞きに行った。初めて聞く天皇陛下の声である。
ラジオの性能と電波が届かないのが重なり、何を云っているのかさっぱり分からなかったが、戦争が終ったことは理解できた。
当時は唯、空襲から逃れるため必死に逃げ回っていたので空襲に怯え暮らさなくてよいことだけが頭に浮かんだ。あと数ヶ月も続いたら我々の命も無かったと思う。
その後、広島、長崎に特殊爆弾が落とされたと噂で聞いたが、当時はピカドン(ピカッと光りドンと音がするという意味か)と言っていた。米兵が進駐し日本人は皆殺しにされるというデマもながれた。
戦争が終わり日本国中で軍人の復員が始まり、兄が江田島の海軍兵学校から帰郷した時、疎開先がわからないだろうと心配した父と自転車で、何時帰るかわからない兄を川内駅に何回も迎えに行った。突然、兄は疎開先に帰ってきたが、数日前まで御国の為に、天皇陛下の為に、死を前提とした忠誠心を求める軍国主義最前線の教育を受けた兄は、簡単には思想の切り替えができなかったようである。
然し、久しぶりの親子4人の生活、約3ヶ月の疎開生活を終え一面焼け野原の中に幸いに焼け残った鴨池町の我が家に帰って行ったが、助けていただいた鍋倉家の厚情は忘れられない。
昭和20年8月30日、マッカーサー連合軍最高司令官がサングラスにパイプをくわえて厚木飛行場に降りた。9月に漸く授業が再開されたが10月15日には占領軍が二中に進駐してきた。
時代の変転によりこうも変わるものか。2ヶ月前までは"鬼畜米英"と教えられていた米軍が目の前に現れ、我が二中は接収された。終戦ではなく敗戦である現実を見せ付けられたが、なぜか敵愾心は湧かなかった。恐らく敵愾心も湧かない程、日本国民は打ちのめされていたのだろう。
焼け残った二中の校舎をベースキャンプにするため、我々は伊敷の旧18部隊に引っ越す事になり、トラック等、輸送力が十分に無い時代で生徒が担いで数日かけ数往復して運搬した。
ホルマリンに漬けた生物の標本等、特に当時は机と椅子が一体となった作りで、重く運びにくかった事を思い出す。
登校すると星条旗が翻り、すでに米兵がいた。
コーヒーを飲みながら靴底でマッチを擦り、煙草に火をつける仕草を遠くから興味深く眺めていた。
生徒が校庭に集まり運搬する備品を整理していると、進駐軍の先遣隊が校庭の隅の一角にあっという間もなく建物を建てた。外観はグリーンに塗られ、左程大きくはないが米兵が時々出入りをしている。
勿論、生徒が中に入ることは許されないが、米兵が出入する瞬間だけ中を覗くことができた。
米兵がテーブル状の上に座りお互い隣同士喋っている。この時、隔壁がなく腰掛けて、隣同士話しながら排便をしている姿をはじめて見た。古来、日本人は用を足す時は和式トイレ以外念頭になかったが、その時、今ではごく普通の洋式トイレを初めて目撃し、カルチャーショックをうけると同時に瞬く間に完成させた米軍の早さに驚いた。
伊敷の旧兵舎は教室に造り替え、中央に廊下があり両側に教室が並んでいたが、窓ガラスは無く向かい側の教室は丸見えで、話し声も聞こえ落ち着かない教室だった。勿論、冷暖房はなく冬になると生徒はオーバーやマフラー等、着られる限りの服を纏い寒さを凌いでいた。授業は再開されたが校庭の防空壕を取り壊し、空き地を見つけて開墾し畠作りが授業の一環だった。
荒田より伊敷に移転したので通学するのが大変で、現農学部の前に住んでいたので高麗橋を渡り新照院、草牟田、伊敷と歩いて通学していた。 当時、電車も復旧していたが台数が少なく、騎射場電停にたまに来る電車は超満員で電車の外までぶら下がっていた。たまたま来た電車に乗れたら幸運で時には鹿児島駅まで乗り、冷水峠を越え伊敷まで通学していた。
勿論、始業時間は決まっていたが遅刻するのは当然のような時代である。食料事情も悪く満足に飯が食えない時代で、生徒は常に空腹だった。2時間目を過ぎた頃には早飯を食べる者もいたが、唐芋や代用食が主の弁当である。
この兵舎の一角に一中も併設されていたので、下校時の伊敷電停は数少ない電車に生徒が群がり、電車にぶら下がっている生徒を交通局員が棒で叩き落していたが、電車が走りだしてからぶら下がる学生もいた。
当時は運転手の周りも学生や市民で囲まれ窮屈そうに運転していたが、一段高い広々とした席で乗客を見下ろしながら運転している現代の市電の運転手に何となく違和感を覚える。
昭和21年、戦地からの復員が始まった。鹿児島の港にも引揚げ船が入港するようになり、一面焼け野原の中に外壁だけ焼け残った高島屋(現タカプラ)に収容されたが、窓にガラスはなく莚が下がり、街では「りんごの唄」が歌われていた。
昭和21年10月、約1年振りで伊敷の校舎から複帰し、再び生徒全員で机、備品を運んだ。軽い物は甲突川の流れに沿い川に浮かべて運ぶ生徒もいたが、校舎は壁から黒板まで全てがグリーンのペンキで塗られ教室ではなく兵舎のまま返還された。
同級生も外地から引揚げた生徒、少年航空兵帰りの軍隊経験者等、年齢も3〜4才のばらつきがあった。
一応の授業が再開されたが教科書はザラ紙で作られ、製本はされず新聞紙大の紙を教科書大の大きさに切り教科書とした。戦前の教科書はGHQ(連合国総司令部)の命令で不適当と思われる部分を墨で上塗りし、1頁の殆どが抹消された黒い教科書である。
GHQの軍国主義者公職追放のため二中校長は追放され、昭和23年教育改革で二中は鹿児島県立第二中学校併設中学校と名称が変わり、その後、更に鹿児島総合高等学校で一高女は一部、二高女は二部、工業は三部、二中は四部、二高女は五部と変わり校名は数字で統一された。
昭和24年、二部(二高女)と四部(二中)を統合し甲南高校が発足したが、当時二中は一高女と合併したい要望があったがまとまらず、それでは一中と合併させようと案がでたらしい。慌てた二中は一中と合併するより二高女を選んだといわれている。
「合併をどうせするなら一高女、一中とするなら二高女でもよし」二中生の間で囁かれた言葉である。
突如、二高女の女性集団が二中に引っ越してきた。戦前は男子校、女子校と区別されていたので、親しみより、物珍しく、奇異な感じで眺めていた。
クラスに男女半々で学ぶ共学ではなく、進学を希望する女生徒のみを男子のクラスに編入させる男女併学であった。
当時は学問より先ず生活を維持することが優先され、学生間でアルバイトが流行り、私も経験したことがある。
最初はタクシー会社の電話番号を印刷したカードを店に入り電話機の横に貼る仕事だったが、断られる事もあった。
最も人気があったのが石鹸売りで、仕入れ値段1個10円を1個30円で新聞紙に包んで売ったと思う。当時の洗濯石鹸は苛性ソーダを溶かし木枠に入れ固めただけの香料もない豆腐の様な形をした粗悪品である。夜行列車に乗り北九州、炭鉱の町まで出かけ売りさばく学生もいた。
特に学費に困っていたわけではないが、当時、アルバイトが学生間で流行していたので興味と経験のため30個を仕入れ、父が開業していた川内市向田町を中心に売り回った。僅かに30個だがずしりと重く、4〜5個だけ売れたが殆どが売れ残り、途方に暮れていると馬鹿なことはするなと母が残り全てを買いとってくれた。反省と母の優しさだけが頭に残る。
戦争に負けて多くの制度が改革された。
昭和22年農地改革が施行され不在地主は土地を没収された。地主から安い価格で強制的に買い上げ、これまで地主から借りて耕作していた小作人に安く売り渡す制度である。
この為、農業は細分化され、政府も細分化された農業にこだわり続けたため莫大な税金を投入し保護してきた。農業を産業ではなく家業にしたため今日まで農業保障問題で苦しんでいると思う。
不在地主となることを嫌った父は川内市大小路町の永井医院の外来を借りて開業したが、院長が復員され向田町に新築した。終戦の翌年で周辺は焼け野原、屋根瓦・ガラス窓の無いバラックで、戸を閉めると真っ暗だった。
若松耳鼻咽喉科を名乗り、父と母の二人だけの医院で5年間川内に開業していたが、しばらくして中学卒のお手伝いさんが看護婦の働きもしていた。
手術もしていたが現代のような術前検査は言うまでもなく、血圧を測ることもなかったように思う。消毒はお湯を沸かし蒸し器で消毒していたが、よく感染しなかったものと感心している。
慢性中耳炎、蓄膿症の手術、ヂフテリーのため気管切開もおこなっていた。
ある日、父が飼っていたニワトリの尻尾の毛を抜き、尻尾の先で気管切開孔を擽り、反射的に患者に咳をさせ喀痰を排出させていた。勿論、吸引器のない時代であるが、貴重な現代では想像できない治療法であり、感染もおこさず治癒していたのが不思議である。
慢性中耳炎の手術も行なっていたが、勿論、抗生物質・手術用顕微鏡はなく、現代の鼓室成形手術のような再建手術ではなく中耳腔を開放する破壊手術である。
入院患者は寝具・自炊用品を持ち込み、ガラス窓のない裸電球の下がった部屋に入院していた。術後何日目のガーゼ交換であったか記憶がないが、ガーゼに蛆がわいていたのを目撃したことがある。当時は周辺を蝿が飛び回る、そういう時代だった。
この頃、歯が痛く歯科を受診した。綿花の代わりに新聞紙を口内に入れ手動のドリルで歯を削っていた。回転数が低いので神経を刺激し、痛くて我慢出来なかったことを思い出す。
世の中は当然食料難の時代で、宅地のなかの焼け跡を整理しながら空き地をみつけては野菜を植え、鶏を飼っていた。
昭和26年までの5年間川内で開業していたが、時々鹿児島市から食料をもらいに行っていた。納屋から車力を引き出し、米俵を積み、太平橋を渡り、精米所で精米して私達に与えていたが、神戸育ちの細い母にどうしてあのような力仕事が出来たのか不思議に思う。
戦後の時代、そして母の愛が母にあのような力を与えたのだろう。