■ 自分史 第1回

昭和7年9月8日 県営住宅(現、鹿児島大学水産学部前)に生まれた。
父は川内市(現、薩摩川内市)宮内町に生まれ、母は神戸市に育った。
母方の祖父が薩摩郡下東郷の出身で、私の両親の出会いの原点はここにあった。
父方の祖父は税務署長であったが、10人の子沢山で貧乏では無いが裕福ではなかったらしい。母方の祖父は内科医で、神戸市の医師会長を務めた裕福な家庭に育った。
勿論見合い結婚だが、神戸駅に父を迎えた母は浴衣姿に兵児帯を締めた父に驚愕したが、今風に言えばイケメンだったそうだ。

川内中学校、熊本医科大学を卒業した父は県立鹿児島病院耳鼻咽喉科に勤務、母は神戸市北野町にあるキリスト系の松蔭高等女子校(現、松蔭高校)を卒業した。
初めて鹿児島を訪れた母が眼前に聳える桜島を見ながら「桜島は何処ですか」と尋ねたという。母は須磨の海岸から遠く眺める淡路島を頭に描いていたらしい。

当時の県立鹿児島病院は現在の九州循環器センターの場所に在ったが、当時は電車が朝日通りより西郷隆盛像前を右折、鶴丸城前を通り県立病院前を岩崎谷の方に直角に曲がり長田町と走っていたので、交通の便利は良いとこだった。私の記憶では2階木造建て、現代の病院とは比較出来ないが、長い廊下で繋がる薄暗い雰囲気の病院だったと記憶している。

■ 自分史 第2回

昭和11年2月に父は呉服町51番地(現、三越駐車場辺り)に開業したが、名称は若松耳鼻咽喉科だった。父は公務員の家庭に育ち、母は医師の娘で跡継ぎが居ないため母の姓を名乗ったらしい。昭和42年私が継ぐまで院名は若松耳鼻咽喉科と名乗っていた。

当時は耳鼻科医が少なく郊外・離島に耳鼻科医がいないため、外来・手術・往診と大忙しだった。
手術は診療を始める早朝、又は外来が終わり夜の8時、9時までしていたように思う。病室は7つ8つあつたと思うが全て和室で1部屋に2人収容していた。
当時は栄養状態、衛生状態が悪く多くの子供が鼻を垂らしていた。特に夏休みは氷屋と耳鼻科医のかき入れどきで、外来は小・中学生で溢れ入院患者に住宅まで開放し、母、兄と共に毎年夏休みは磯・市来・指宿・日奈久(熊本県)の海辺に部屋を借りて暮らしていた。見た目は優雅だが、我が家を追い出され住む場所がなかったのだ。

当時は医療保険制度が無く給食もない。入院患者は夜具一式と炊事道具を持ち込み、共同炊事に共同便所である。
術後3〜4日は頚部や頬部を氷で冷やしていたので、氷をカチカチ割る音が一日中聞こえていた。看護婦(師)は正規の教育を受けず資格も無く、中卒の見習い看護婦(師)で医療業務の他、庭掃除、風呂焚き、雑用等お手伝いさんの一人として働いていた。
手術は局所麻酔で手術室から泣き叫ぶ声が聞こえていた。手術室を覗いたことがあるが手、足、胸をベッドに縛られ、当時は痛くても我慢する時代だったのだろう。

往診は観光地でよく見られる人力車で、自動車が登場する以前は医師には馴染み深い乗り物で、往診には良く使用されたようだ。往診の往復に父の膝にのり、車夫がゴム製のラッパを鳴らしながら走るのが愉快であり楽しみだった。

■ 自分史 第3回

昭和13年私立敬愛幼稚園に入園したが、当時は幼稚園に入園する子供は少なく、鹿児島の気風として舎(薩摩の卿中教育の名残の学舎)に入る子が多かった。何故キリスト教系の幼稚園に入園したか不思議に思うが、母が神戸の桐蔭女子高出身である。
支那事変(日中戦争)の真っ最中で、日米との戦雲高まる当時鹿児島で外国人を見ることは珍しいことだった。園長のフインレー先生にお会いしたとき、この世で初めて会う外国人に驚き泣き喚いた覚えがある。

敬愛幼稚園では、10時に近所のミルクプラントの牛乳とクッキーのティータイム、そして簡単な英単語を教え、12月になるとクリスマスを祝っていたが、当時としては画期的なことだったと思う。青組、黄組、赤組があり、私の担任は茂木先生で優しい可愛いらしい先生だった。園児はエプロンを掛けハンカチを長方形にたたみ青の毛糸のボンボリを胸につけ、バスケットに弁当を入れ通園していた。毎日呉服町から山之口町本通り、一高女(現中央高校)横を通り通園したがいつもネエヤ(お手伝いさん)と、時に隣の小児科医の娘さんと一緒だった。

高麗橋横の甲突川沿いにある幼稚園は現在と同じ場所だが、当時は川の両側は草むらでどこからでも川に降りることができ、川魚を取ったり水遊びをしたり、現在の市立病院の対岸あたりには乳牛が放牧されて長閑な場所だった。西郷隆盛誕生地横の敬愛幼稚園を見るたびに昔が懐かしく想い出される。

当時の開業医は日曜日の午後だけが休みで、父に連れられ山形屋の大食堂で日の丸の小旗が立ったチキンライスを食べに行くのが楽しみだった。川内に育った父は川内川でよく泳いでいたのか、磯海水浴場に連れて行き背中に私を乗せながら泳ぐのを得意としていたが、最近はこのような父親を見たことがない。

■ 自分史 第4回

昭和14年4月鹿児島県立男子師範学校付属小学校(現、鹿児島大学教育学部付属小学校、当時は男子の教師を育てる男子師範学校と女子の教師を育てる女子師範学校は夫々独立していた)に入学した。国語の第一ページは「サイタ サイタ サクラガサイタ」 「ススメ ススメ ヘイタイススメ」で、これは昭和8年から15年までで大正7年から昭和7年までは「ハナ ハト マメ マス」であった。

通称 男子付属では一学年男女一クラス(隔年に複式一クラス)で私は複式に入学したので級友は僅かに22人、この22人が6年間クラスを変えることなく学ぶので当然友達同士の親近感が深い。後期高齢者となった今でも県外の友人が帰鹿すると連絡があり旧交を温めているが、残念ながら鹿児島在住の旧友は僅かになってしまった。

今では全国どこの小学校でも給食が行なわれているが、男子付属では当時から行なわれていた。
現代のように各教室で食べるのではなく、保健館と名づけられた建物で全校生徒が一緒に食べていたが、食料の不足する時代で体位向上と偏食をなくすることが目的で、豚汁、今では高級魚だが鰯の煮付けが多かったように思う。食べ残しは許されず全部食べるまで先生が監視していた。後期高齢者になった今、好き嫌いなく全て食べるのもこの時の躾と感謝している。
食事の前には「食事訓」を全員で合唱し、感謝と作法を教えられた。

「食事訓」
一つには 日の本の君のみ恵み身にしみつ
二つには ふた親の深きご恩を省りみて
三つには 皆様の重なる力を感謝しつ
四つには 良き作法にて良くかんで
五つには いつもにこにこ ただ有難く

次第に世の中が緊迫するに従い米が不足しおかずだけの給食になり、校庭の一部を耕し栽培した僅かな薩摩芋、野菜等も給食にあてがわれた。
通学の帰り道に馬糞や草木灰を集め翌朝堆肥小屋に集め肥料にしていたが、町の中に住んでいた我が家に草木灰は無く、竃で炭俵を燃やし灰を作り学校に持って行ったが当時の肥料の大部分は人糞である。

■ 自分史 第5回

当時の交通機関は汽車、乗り合い自動車(バス)、電車そして馬車に人力車。タクシーも自転車も少ない当時は電車が市民の最大の交通機関だった。
電車はチンチン電車と呼ばれ、乗降口に扉は無く運転手、車掌の横にも客が立ち、満員の時は客が電車にしがみついたまま走っていた。車掌がぶら下がった紐を引くと運転台でチンチンとなっていたので、チンチン電車と呼ばれたのだろうか。
電車は武之橋を起点に谷山。高見馬場を経由して鹿児島駅。又朝日通りより西郷隆盛像前を右折し、鹿児島病院前(現医療センター)より岩崎谷、柳町へ。更に柿本寺(現加治屋町)より草牟田を経由して伊敷迄運転していたが、新上橋から伊敷までは現在の国道3号線より城山側の畠の中を単線で走り、第45連隊の練兵場横が終点だった。

戦後は車社会となり、昭和60年に伊敷線・柳町線は廃止となり西鹿児島駅(現鹿児島中央駅)より唐湊、郡元線が建設されたが、今になると廃止したことが悔やまれると思う。バスは旧イワサキホテルの横に林田バスの待合室があり北薩、南薩方面への起点であったが、郊外にでると砂煙をたてながら走っていた。次第に燃料が不足し市営バスも木炭を燃料としたが、メガネ状の高麗橋を越す力が無く乗客がバスの後押しをしたこともあった。
電車道は荷馬車が荷物を運んでいた。現代のトラック輸送であり又メッセンジャーという職があった。今で言う宅急便だろうか。学校に弁当を忘れるとメッセンジャーが持ってきてくれていた。

母に連れられ川内に墓参りに行っていたが、早朝に我が家を出て川内駅から馬車に乗り上川内と東郷町の墓参り、そして小作人の家を訪ねると帰ってくるのは夜の7〜8時で、新幹線で13分というこの世はとても想像が出来ない時代である。

当時は街路樹も街灯もなく、我が家と前の家の間にワイヤーを張り、道路の真ん中に笠をつけた裸電球が点いていた。これが街灯の役割をしていたが薄暗い町であった記憶があり、御神輿が通る時は竹の先で電球を持ち上げて通していた。石燈籠電停より山形屋にかけ納屋通りと名づけられた路地があり、魚屋、八百屋、海産物で賑わっていたが今は面影もない。

当時は勿論汽車も電車にも冷暖房は無く、どの家もガラス窓、障子だけで夏は団扇と扇風機。冬の唯一の暖房は火鉢に炭をおこし、火鉢に跨り手を温めていると行儀が悪いと母に怒られたものだ。部屋が冷たいので布団も冷たく、布団に潜り込みしばらくは海老のように背中を丸め足を抱えて寝ていた。夏は蚊取り線香に蚊帳を張り、今では忘れられない思い出である。

■ 自分史 第6回

朝起きると東方遥拝(宮城=皇居に向かって)、朝読みをする。
当時の生活は竃で御飯を炊き、出来た御飯は御櫃にいれ冬は藁で編んだいずめにいれ保温した。

テレビは無く、ラジオもダイヤルを合わせ雑音を止めるのに苦労しながら、家族揃ってニュース、歌謡曲、浪花節を聴いていた。画面に映像が映る(テレビ)なんて考えたこともない。犬のマークで有名なビクターの手巻きで針付きの蓄音機があったが、レコードを聴いた記憶はない。レコードを聞くような世の中ではなかったが、未だにカラオケが歌えない原因はここにあると思っている。
冷蔵庫は毎朝上段に氷屋が大きな角切の氷をいれ、下段が冷蔵室であった。夏は氷を割り砂糖をいれ砂糖水として飲んでいたが、氷が減ると怒られたものだ。
風呂は五右衛門風呂で、釜に直接火を焚いて沸かすので釜に体が触れると火傷をする。底に踏み板を敷いて入っていたが、突然踏み板が持ち上がり顎を打つことがあった。トイレは水洗ではなく汲み取り式で、櫻島の農家の人が汲み取りにきていた。一樽いくらで汲み取り料を払っていたが、化学肥料のない当時は肥料の重要な資源であったと思う。

また害虫が多く蚊、アマメ(ゴキブリ)、蝿、ヤッデコ(アシダカクモ)、蟻、鼠に悩まされた。薄暗い部屋の片隅にヤッデコがいると子供心に不気味なものだった。
今の若者には想像ができないだろうが、便所が水洗でなく蝿が飛び回り蛆虫が這いずり回り、蠅取り紙やリボン状の蝿取り紙をぶらさげて駆除していたがとても駆除できず、蝿や蚊を殆ど見ないこの世を不思議に思う。コックローチ、ゴキブリホイホイの無い時代である。

我が家に電話があったが、電話を使う時は診療所の電話ボックスまで行っていた。
因みに我が家の電話番号は2215番「ふたせんふたひゃくじゅうごばん」で、番号を告げると電話局の交換手が繋いでくれた。電話機は西部劇でみるような壁に取り付けてあり箱状で、右側に受話器が掛けてあり送話器に口を当て話した。東京に市外電話を掛けると通じるまで2〜3時間かかり、混線しているときは忘れたころ通じていた。現代のように携帯電話は勿論、各家庭に電話が無い時代である。

酒も煙草も吸わない父は大の映画好きで、よく「キネマに行く」と母と出かけていた。当時、父に連れられ活動写真と呼ばれた無声映画を見に行ったことがあるが、画面を弁士が説明し楽士が画面にあわせて演奏していた。帝国館、富士館、昭和館、高島館等、時代を彷彿とさせる館名だった。

■ 自分史 第7回

我が家には小さな中庭があったが遊び場はなく、兄と鴨池、紫原に遊びに行っていた。
鴨池には遊園地、動物園、ボート池(現、ダイエー付近)があり、現在の体育館周辺は畠で民家が散在しており、コンボイ(おにやんま)を捕り垣根にいるヤッマコッ(こがね蜘蛛)を笹の葉でとり袋にいれて持ち帰り我が家の庭木に放すと、翌朝は大きな巣を作り真ん中に蜘蛛が威張っていた。蠅がかかると蜘蛛が寄ってきて尻から糸を出して丸め込む。また一本の棒で二匹の蜘蛛を戦わせて遊んでいた(毎年加治木で蜘蛛合戦がおこなわれている)。その姿に快感を抱いていたが母は蜘蛛が大嫌いで逃げ回っていた。
紫原は原野で兄と空気銃で雀を撃ちに行っていたが、当時は誰でも許可なく空気銃を持てたのだろう。

正月は南林寺公園(現、NTT、松原神社境内付近)でサーカスが、夏休みは大相撲の地方巡業を見に行っていたが近所に友達はなく物干し台で石鹸水のシャボン玉を飛ばし、小さな庭で独楽まわし、めだま(ビー玉)で一人淋しく遊んでいた。後期高齢者となり孤独になった今日、この時の経験が役立っている。
講談社から月刊誌、幼年倶楽部、少年倶楽部が発行され読まれていた。記憶に残る連載ものは幼年倶楽部のコグマノコロスケ、少年倶楽部の、のらくろ、冒険ダン吉、日ノ丸旗之助、敵中横断三百里などである。

我が家の床の間に日本刀が3本あり、時々父が刀身を粉袋で叩いていた。
当時チャンバラゴッコが流行っていたが、兄の発案で刀の切り合いはどんな音がするのか試してみようと二人で軽く刀身をあわせた。"チャリン"という音を想像していたが脆くも刃毀れがした。
父に物凄く怒られたが時代劇で多くの人を切り倒す場面を見たり、戦国時代の話を読んだりするが本当に一本の日本刀で多くの敵を切り倒せるのか今でも疑問に思う。我が家の日本刀が粗悪品だったということで心を落ち着かせている。

日本刀のことは忘れていたが、父の死後タンスの奥から出てきた。終戦当時日本刀はすべて供出し没収されたが何故か出てきた。警察に届け鑑定をうけたが、刀身はすでに錆びつき鑑定士の怪訝な顔つきが気になった。周囲を見るとその筋にあたるような女将が若い衆を連れてきらりと光る脇差をみせていた。
鑑定士曰く、価値がなく1本は廃棄、他の2本も価値はないが研いだら鍔だけでも価値があるでしょうと刀剣登録証をくれた。
今更研ぐ気持はないが、戦前から我が家にあり愛着があり、我が身になぞらえ廃棄する気にはなれない。

■ 自分史 第8回

校門を入り奉安殿(天皇、皇后の御真影や教育勅語を納めていた建物)に最敬礼して校舎に入ると正面に校訓が掲げてあった。

一、人のためには美しき涙を流せ
一、己のためには清き汗を流せ
一、国のためには尊き血を流せ

最後の「国のためには尊き血を流せ」が当時の国状を彷彿させる。
当時、鴨池(現県庁周辺)に海軍の航空隊があり城山、吉野上空より錦江湾を横切り櫻島周辺に急降下していく飛行機(単発のプロペラ機)を目撃していたが、戦後真珠湾攻撃の訓練だったと聞かされた。

昭和16年12月8日登校する前だったと思う。突然ラジオが大本営発表の臨時ニュースを告げた。
「帝国陸海軍部隊は本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」
この日は軍艦マーチの後このニュースを繰り返し、この日より終戦の日迄ラジオ、新聞は大本営発表を報じ我々はそれを信じ続けた。
大東亜戦争(第二次大戦)が始まったのは三年生の時(昭和16年)だが、当然小学校生活も戦時色が濃くなり少年団、海洋少年団が編成され手旗信号、モールス信号を教えられ先生や友達間の挨拶も軍隊式の敬礼になった。
朝礼では国旗掲揚、国歌斉唱、宮城遥拝がおこなわれその後、夏でも冬でも上半身裸になり皮膚が赤くなるまで乾布摩擦を行なっていた。登下校時は霜降りの詰襟の制服で夏冬とも半ズボンで、校舎の入り口の下駄箱に靴を入れると下校まで冬でも裸足だった。祝祭日には講堂で校長先生が教育勅語を奉読され、生徒は全員直立不動の姿勢で聞いた。

当時はクラスのいじめより学校間の対立が激しく、登下校時の喧嘩が絶えなかった。
我が家の周辺は松原小、市尋校、女子付属の生徒だけで日置裏門通りの角(現、文化通り旧イワサキホテルの横)の若松久人君(ニューバッグ若松、社長)が唯一の同級生で一緒に通学していた。男子付属は当時西鹿児島駅(現、鹿児島中央駅)の西側、現在の新幹線辺りにあったので呉服町より電車通りを、高見橋から黒田通りの踏み切りを渡り通学していたが、電車に乗るのは禁じられていた。
通学途中出会うのが山下小の生徒で特に男子付属の生徒は目の敵にされ、体力に自信のある子は立ち向かえるが我々は彼らの姿を見ると「君子危きに近よらず」と若松君と路地に身を隠し遠回りをして逃げ帰っていた。この精神は今でも忘れないようである。

■ 自分史 第9回

大東亜戦争(第二次大戦)が始まり、小学校は国民学校と改められ教育も軍国色となり、街では武運長久を祈り「千人針」(一枚のさらし布に赤糸で千人の女性が一針ずつ縫い玉をつけたもので、弾丸よけになるとされ出征兵士に贈る風習)をお願いする姿が見られ、同時に作文の時間は戦地の兵隊さんに慰問文を書くことが多くなった。
健康な男子は全て戦地に行き、代りに「大政翼賛会」が行政の補助機関となってきた。
モンペ姿の女子による国防婦人会、隣組が強化され、出征兵士を送る時、空襲時を想定したバケツリレーよる消火訓練、灯火管制等、全て隣組の班長の責任だった。
米は勿論のこと食料品・衣服も配給制となり、食堂で食べる時は外食券という国が発行する券が必要となり、日の丸弁当、愛国パンという言葉が生まれた。小学生の制服も継ぎはぎだらけに、靴も破れた靴が多くなってきた。

日本国中が"鬼畜米英"、"欲しがりません勝つまでは"、"贅沢は敵だ"、"撃ちてし止まん"の標語のもと戦意の高揚を図っていたが、昭和17年頃までは勝ち戦に国中が湧き、シンガポール陥落に際し日本軍司令官山下奉文がマレー英軍司令官パーシパルに "イエス"か"ノー"かと無条件降伏を迫った言葉で国中が湧きかえった。(戦後の回顧録によると、実際降伏の意思があるかどうかという趣旨を拙劣な通訳に苛立って放った言葉が脚色されたのが真相らしい)シンガポールはその後、昭南島と呼ばれ陥落記念に小さなゴムマリが配られ、御国のため天皇陛下のために戦えと教育された時代である。

小学5年生(昭和18年)になると戦局は一変し、2月に日本軍はガダルカナル島より撤退し、5月にはアッツ島の玉砕が報じられた。
家庭では空襲に備えた灯火管制のため、電球を黒い布で覆い各部屋雨戸を閉め光が漏れないよう目張りをしたが、明かりの漏れている家庭は隣組の班長が見て回り大声で怒られた。暗くすれば敵機が見過ごし頭上を通過するという幼稚な発想らしい。
焼夷弾が落ちたら速やかに消火活動ができるよう、天井板は全て外し天井を見ると梁が丸見えだった。爆風でガラスが割れないようガラスに新聞紙を糊で貼り、各家、路地には防火用の水槽が設置されたが、古くなるとボウフラが湧き蚊の温床となった。この水を使い10人位でリレー式の消火訓練がおこなわれたが、小さなバケツ一杯の水は最後の人に手渡され時は半分も無い状態だった。
民家は延焼を防ぐため強制的に取り壊され、各家には防空壕が作られ、我が家にも1m余りの穴を掘り上面を孟宗竹で覆い土を被せた防空壕がつくられた。
竹の先端を削った竹槍で敵を倒そうと考えた時代である。今思うと滑稽であるが当時は真剣だった。

■ 自分史 第10回

昭和19年頃より戦局が更に悪くなり、7月にサイパン島、8月にグァム島の玉砕が報じられた。
学校では生徒の胸に名前、住所、血液型を記入した布を縫い付け、爆弾が落ちた時に備え両親指で両耳を塞ぎ他の指で目を押さえ鼓膜が破れないように、また眼球を保護する訓練がおこなわれた。校庭には防空壕が掘られ通学中は防空頭巾を背負い空襲警報が鳴ると防空壕に飛び込んだ。
戦意高揚のため、ズボンのポケットも手をいれないよう縫い合わされ、ポケットに手を入れることが禁じられた。

当時日本には徴兵制度があり兵役の義務があった。
この召集令状が「赤紙」と言われ当時の葉書が一銭五厘であったため、この召集令状は別名1銭5厘といわれた。富国強兵の時代とはいえ、一人の人間が葉書一枚で集められた時代である。
赤紙(召集令状)が届く事が名誉あることとされ、家族・町内会の人々が万歳、万歳で出征を祝った。
兄は海軍兵学校に入校し、40歳も半ばを過ぎた父も軍医見習士官として徴兵された。当時は当然の事と思えたが、父は持病の痔が悪く出血し即日帰郷となったそうである。痔が幸いでその後、父は百歳まで長生きしたが人の運命は判らないものである。

大本営が発表するニュースで国民が戦争に勝ち続けていると思っている間に、次第に街から金属製のものが消えていき、家庭の金火鉢、鍋、釜、全てが供出され軍需品になると聞いていた。バスは木炭車となりバスの後部に木炭を燃料とする設備がつけられた。
当時小学生は全員丸坊主だったが、床屋もタオル・石鹸を持参するようになり油の切れたバリカンで、ラジオが敵機が奄美大島南東を北上中と伝え徐々に北上を伝える度に、早く終わらそうと切れないバリカンを押し付ける。髪を刈るより引き抜く状態で痛くて涙を流していた。
食料事情も一段と緊迫し、味噌・醤油・砂糖も姿が消えた。砂糖の代用品としてサッカリンを使っていたが、今調べると発癌性があると記載されている。配給の食料だけでは生きていけず自衛的に自給自足体制をとり、一坪農園・家庭菜園が作られ、全ての空き地は畠となった。
燃料、生活物資すべてが不足しても神国日本は負けることは無い、いつか神風が吹くと教えられ信じていた。今風に言えば洗脳だろうが、教育とは恐ろしいものである。

昭和19年2月6日(日曜日)、18部隊の面会日に大隅半島から家族が大勢押しかけ垂水丸に定員を超え乗船したため、桟橋の沖合で沈没。大惨事を起こしたことがいまだに記憶に残っている。

街のあちこちでは出征兵士を送る万歳が聞こえ、伊敷にあった陸軍歩兵第45連隊(西部18部隊)の兵士が行軍する軍靴の足音が街中に響きわたった。空襲時の動物園の被害を想定し猛獣の処分が決まり、ライオン・トラ等が毒殺されたのもこの頃である。

この稿を書いている時、稲村貞仁君より連絡があった。
稲村君は小学生時代の級長であり、70年経った今でも級長である。
平成21年10月18日に昭和20年卒、鹿児島男子師範付属小学校複式同窓会を開くので参加を促した文面である。
昭和20年終戦の年、僅かに22名の仲間の何名が元気なのだろうか。数年前の前回は確か7〜8名の出席だった。その後2〜3名が鬼籍に入られた。今回は何名が出席出来るのか心細く同時に懐かしい。
遥々東京までと思いながら級長の要請とあれば出席するつもりである。恐らくこの世で最期の同窓会であることは級長も察しているだろう。