昭和11年 2月
(1936年)
江川久男(現院長の祖父・1代目)が鹿児島市呉服町51
(現在の三越駐車場あたり)に若松耳鼻咽喉科として開業

◆ 昭和40年当時 ◆
昭和20年 6月 戦災で焼失したため、翌年より川内市向田町に移転
昭和26年 2月 現在の鹿児島市大黒町2-3に移転
昭和42年10月 次男である江川俊治(2代目)が医院を継承し、 江川耳鼻咽喉科医院に名称変更
昭和55年10月 木造から3階建てのビルに増改築
平成 2年 4月 医療法人雅美会 江川耳鼻咽喉科に名称変更
平成17年 4月 江川雅彦(3代目)が院長となり、5月に病院再改築
◆江川 俊治 (現理事長) 自分史◆

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自分史 第61回

自分史 第62回

自分史 第63回

■ 自分史 第63回

医学部を卒業して早くも30年たち医学部一期会の家族紹介の文集に次の文を投稿した。

“吾輩は猫である”どこかで見たことのある言葉だが、僕は3才の雄猫“くり”とよばれている。名前の由来は判らないが、多分毛並みが栗色をしているからだろう。

僕の主人は医師なって30年、来年は30周年のお祝いがあるそうだ。夫婦同伴という事らしいが、一緒に外出しない二人だから、たまには二人で外出するのも良いだろうと僕は思っている。

先生には息子と娘がいる。息子は久留米大学の5年生。たまに帰って来ると部屋の扉を閉め電話で話しているが傍に僕がいるのを忘れている。家族に聞かれたくないのだろうが”頭隠して尻かくさず“で僕の存在を無視している。もう一人の娘は適齢期を過ぎようとしているのに、嫁に行く時が適齢期と今は全くその気がないらしい。僕をこの家に連れてきたのもこの娘で最初は可愛がってくれたが今は全く知らん顔をしている。娘に代わり奥さんが溺愛してくれるが何時まで続くか心配だ。

先生がたまに“テレビ相談室”等でテレビに映されているのをみると、気持ちでは学生時代と変わらないらしいが老けたなと思う。何より好きなゴルフの回数が減り、反面、酒の量が増えたのが何よりの証拠だ。美味いものを食べるもよし、遅くまで飲むのも結構、いくら頑張っても人間には寿命というものがある。金を稼ぐだけの働き蜂にはなって欲しくないと思っている。深夜 窓越しに覗いてみると奥さんが虫眼鏡で新聞の株式欄を読みながら考えこんでいた。

この家に連れて来られたとき‘コッコチャン“と呼ばれる雌鶏がいた。はじめて見知らぬ雌鶏に会い、親しみをもって近寄っていくと何を勘違いしたのか逃げ出した。更に近寄ると3階から下に飛び降りてしまった事がある。今ではその彼女が僕を突き威嚇してくる。僕は怖くて逃げ回っているのではない。昔から諺があるように”逃げるが勝ち“という奴だ。先生も結婚して30年やっと”逃げるが勝ち“が判ってきたようだ。僕は3才で判ったのに先生は判りが遅いと思っている。

10年後、先生は医師なって40年。その祝まで果たして元気で居られるか心配だ。僕の寿命は10年と聞いている。10年後、僕は元気だったら先生と一緒に祝いたいと思っている。

自分史 第64回

■ 自分史 第64回

バブル時代が終わり平成の時代になると世の中はデフレそして高齢化社会に一変。同時に、わが家の両親も気づかぬうちに高齢者となっていた。

人間いつの日か訪れるものだろうが、今まで身近に感じることはなかった。私自身が老人の域に達し、長寿国日本が続くかぎりあの家この家で老人が老人を介護する寂しさと虚しさを感じる。テレビ等で夫が妻を、妻が夫を10数年介護する美談を目にするが私にはできないし家族にもその意思はなく、幸いにして家政婦の皆さん方の力添え得て母だけでなく父の介護もお願いした。24時間介護をお願いすれば当然経済力が必要となる。父は株に興味をもち売買もしていたようだがバブル期の消滅で紙切れ同然となり、生命保険にも加入せず残された遺産は数年間で消滅した。

今振り返ると老人施設にお願いしたら良かったと思うが当時は介護という言葉が使われはじめた時代で、いまのように老人の介護に配慮される時代ではなかった。在宅介護が続き母は枯れ木のように痩せ、食事もできずスプーンで強引に押し込まれる。その横に父が虚ろな目をして横たわるという惨状が毎日続いていた。時々施設にお願いする事も考えたが、何となく可哀想でその思いを繰り返しているうち10数年が経っていた。母が元気なころ冗談交じりに最期まで自宅で見守ると約束したことも頭に残っていた。不謹慎のそしりを免れないがこのまま施設に移したらどんなに楽だろう思うことがあったが次の瞬間心の中で詫びていた。私のような典型的な核家族が充分に老人を介護することは難しいことで全国いたるところでみられる老人介護の実態だろう。

「お父さん、お父さん」痩身の老婆とは思えない、老犬の遠吠えのような大声で叫びまわり、父がこの世を去る時もお父さん、お父さんと呟いていた。父と共に昼夜の区別なく介護をうけていたが、夕方になると荷物をまとめ自宅に帰ると言い出し徘徊するようになった。扉に鍵をすると扉を叩く、覗いてみるとスリコギで戸を叩いていた。僅かの隙に出ていきタクシーの運転手に連れられて帰ってきたり、交番からの連絡で迎えに行ったりする事も屡々あった。

ある冬の夜、中央警察署より連絡があり母を保護しているとの事、慌てて階下の両親の部屋を覗いてみると、父が一人で寝ているが母の姿はない。いつの間にか出歩き不審に思われたパトカーに保護されたらしい。婦人警官に平身低頭して連れ帰ったこともある。その後、転倒し大腿骨を骨折したので徘徊はなくなったが、全く寝たきりの状態になってしまった。

世間では介護、介護と叫ばれ、僅かに二文字だが肉体的疲労は言うまでもなく精神的疲労は介護の経験がある者しか理解できない大変な二文字である。自分で出来なければお願いするしかない。両親の最期まで介護していただいた家政婦の方々に感謝の気持ちである。



 江川 俊治 (えがわとしはる)
昭和34年 鹿児島大学医学部を卒業後、インターンとして東京都立広尾病院に勤務
昭和35年 鹿児島大学耳鼻咽喉科大学院に入学
昭和41年 「航空中耳炎および中耳病変に関する臨床的ならびに実験的研究」 にて医学博士号取得
同年 同学部講師
昭和42年 江川耳鼻咽喉科医院に勤務
昭和49年 江川耳鼻咽喉科医院改め、江川耳鼻咽喉科を開業し、院長に就任
昭和55年 鹿児島県耳鼻咽喉科医会 理事
昭和59年 耳鼻咽喉科専門医を取得
平成8年 鹿児島県耳鼻咽喉科医会 副会長
平成12年 鹿児島県耳鼻咽喉科医会 会長
平成17年 医療法人雅美会 理事長就任

◆コメント
信条は“おのれも生き、人も生かせ Live and let live“
「世の中はお互いに持ちつ持たれつで、一人では生きていけない」ということ。



 江川 雅彦 (えがわまさひこ)

平成 2年 久留米大学医学部を卒業後、鹿児島大学耳鼻咽喉科 (現:鹿児島大学
大学院聴覚頭頸部疾患学講座)に入局
  その後、市比野記念病院、九州循環器病センター(現:鹿児島医療センター)、 天辰病院、鹿屋医療センター、済生会川内病院、藤元早鈴病院
に勤務
平成 7年 「慢性副鼻腔炎における嗅覚障害 臨床的・組織形態学的検討」にて医学博士号取得
同年 耳鼻咽喉科専門医を取得
平成 9年 かごしま生協病院に耳鼻科部長として、その後8年間勤務
平成17年 江川耳鼻咽喉科 院長就任

◆主な学会活動
日本耳鼻咽喉科学会 耳鼻咽喉科臨床学会 日本鼻科学会 日本味と匂学会
日本耳鼻咽喉科感染症・エアロゾル学会
日本アロマセラピー学会(認定医・評議員)
◆嗅覚・アロマとの関わり・出会い
鹿児島大学の大学院で嗅覚を専攻し、医学博士号を取得した。 現在はその経験を生かして、嗅覚に重点においた診療を行っている。 昨今のアロマセラピーブームに着目し、平成16年にMAK鹿児島校でNARDアロマアドバイザーを取得した。 日本アロマセラピー学会にも所属し活動の場を広げつつある。
◆コメント
天文館という繁華街ならではの立地条件を生かした地域医療を目指します。
また、簡潔明瞭な病状説明、気軽に質問しやすい外来診療の雰囲気作りを心がけます。


看護師5人、看護助手2人、受付、事務長の計9人です。 うち4名は当院勤務10年以上のベテランです。
そのため、気心が知れており外来業務は円滑に進んでいます。


◆コメント
平成29年7月より新しいスタッフを迎え、気持ちを一新して気配り、心配りのある対応に努めております。
不安に思っていることや、もう少し聞いておきたかったと思うことがありましたら、私達スタッフに気軽に声をかけて下さい。
また、できるだけお待たせすることのないよう配慮していきたいと思っていますので、宜しくお願い致します。